火曜日, 7月 03, 2007

「目的のために生きるとは」

【ショートメッセージ】
第40日目 「目的のために生きるとは」


私達は教会に与えられた、最も大切な命令「大宣教命令」について学んできましたが、この命令には、全てのクリスチャンと教会に与えられた「三つの使命」(目的)が含まれていることを前回学びました。それが「福音宣教」「教会形成」「弟子訓練」です。そしてそれをもっと細かく分類していくと、まさしく私たちが今まで40日かけて学んできた「5つの目的」に見事に一致することが分かります。

具体的に見ていきましょう。◆まず「②交わり」は「教会形成」のことです。私達は、一方的な恵みによって救われ、バプテスマを受け、神の家族の一員とされました。そしてそこで愛の交わりを経験します。◆また「③聖め」と「④奉仕」は「弟子訓練」のことです。私達は自己中心を捨て、与えられた賜物を、神と教会とのために用いていく時に、単なるお客さんではなく、主の弟子として成長していくのです。

いうまでもなく「⑤宣教」は「福音宣教」のことです。私たちは力と賜物に応じて、世界宣教に参加し、時が良くても悪くても証することを期待されています。◆そして最後に「①礼拝」は、それら全ての要素を含む「至高の目的」なのです!礼拝で語られる御言葉は、教会をバランスよく成長させ、未信者を救い、クリスチャンを内から聖めます。どうですか?あなたはこの5つのバランスが取れていましたか?

学ぶだけでは意味がありません。どんなに立派なダイエット器具を購入しても、使わなければただのガラクタです。同様に「人生の目的」も、せっかく40回に分けて学んでも、実行しなければムダな知識にすぎません。◆私達は忘れっぼく、何でも「先延ばし」にしてしまいがちです。だからこそ、学んだことを何度も反復し、自分に不足しているところを発見したら、すぐにそれを補いたいものです。

最終回なので厳しく言います。クリスチャンとして、いつまでも乳飲み子のままであってはいけません。信仰義認、神様の愛と憐れみ、それらは出発点です。確かにキリスト者としての歩みは、そこから始まり、御国に行くときまで、いや御国に行ってからも、その恵みの中に存在し、生かされています。◆しかしこの地上での生涯を、死に至るまで勇敢に走りぬき、忠実なしもべとしていのちの冠を得るためには「自分のからだを打ちたたいて」主に従わせることも大切なのです。

更に、主の目的のためには、あなたのイサクを捧げなければいけません。あなたが一番大切にしているものは何ですか?それが、あなたにとってのイサクです。あなたはそれを、神様に捧げることが出来ますか?◆イサクの場合、間一髪のところで助けられましたが、現実には、そうでないこともあるのです。それでも、あなたは、アドナイ・イルエ、「あなたは私の人生に、最善を用意してくださいました」と告白し、なおも神様を心から礼拝することが出来るでしょうか?◆極論ですが、神様の目的を第一として生きるということは、そういうことなのです。

「あなたの子…、イサクをわたしにささげなさい。」(創世記22章2節)

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6章33節)

「信仰のバランスをとる」

【ショートメッセージ】
第39日目 「信仰のバランスをとる」


私達は今「大宣教命令」について学んでいますが、この命令がまず教会に、そして、そこに属するクリスチャンにも、与えられていることは既に学びました。でも本当に、この大宣教命令のスピリットは、キリストのからだ全体に、そして信徒一人一人に浸透しているでしょうか?もう一度、根本的に検証してみましょう。

大宣教命令は、大きく三つの内容に分けることが出来ます。第一に「福音宣教」についてです。読んで字のごとく、実に力強く、全世界に出て行って、福音を宣べ伝え、ひとりでも多くの魂を滅びから救い出しなさいと命じられています。◆また第二に「教会形成」です。このことは見落とされがちですが、救われた者にバプテスマを授け、キリストの体の一員(教会員)としなさいと言われています。◆そして第三に「弟子訓練」です。教会員を御言葉に基づいて教え、主の十字架をともに担う「弟子」としなさいと言われています。この三つが、教会の使命です。

しかしその三つのバランスがなかなか難しい!ある教会では、一生懸命に学ぶものの、その知識を福音宣教に役立てようとはしません。◆またある超教派団体は「伝道、伝道」と言いますが、実際に救われた人にバプテスマを授け、教会に繋げ、育成していくことをほとんど考えていません。◆またある教会では、洗礼まで一生懸命関わるものの、その後の訓練はおろそかで、いつまでも信徒を子供(お客さん)扱いしてしまいます。それではいつ成熟した「弟子」になるのでしょうか?

牧師の責任は甚大(じんだい)です。牧師が自己流に教会を牧会するなら、その牧師は、その牧会ゆえに裁きを受けるでしょう。牧師の働きは「監督」のようなものです。群れ全体を良く把握し、示された御言葉をまっすぐに語り、愛をもって聖徒たちを整え、個性(賜物)を引き出し、奉仕の働きをさせ、ともにキリストのからだを建て上げていくのです。そうするとき、その群れ全体は「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです(エペソ4:13)」。

でも信徒自身は、どのようにバランスを保つことが出来るのでしょう。まずは自分の群れの指導者が、正しく「教会というノアの箱舟」のかじ取りを出来るよう祈ることです。そして日曜ごとに、期待して礼拝に臨み、その御言葉によって養われることです。◆その上で、信徒同士でもよく分かち合うことです。互いに教え、戒め、賛美するのです。その際、そこにも「大宣教命令」の命が流れていることが大切です。内輪ウケとならず、教会と切り離されておらず、御言葉を中心にしていることが大切です。◆そしてどんな小さな賜物でも教会で活用していくのです。

植物を、着色した水によって水耕栽培すると、どうなるかご存知ですか?その色のついた水は徐々に葉脈をつたっていき、葉っぱにも、花にも、植物全体に浸透していきます。◆同様に教会という木の隅々にまで「大宣教命令スピリット」のバランスのとれた栄養分が流れるなら、何が起こるのでしょうか?信徒に一人一人に、目立たない奉仕に、そしてどんな小さな祈りの輪にも聖霊の命が溢れ、笑顔がこぼれ、教会が四方に向かいグングンと伸びていくのではないでしょうか♪

私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、
教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
(コロサイ1章23節)

「世界宣教に生きる」

【ショートメッセージ】
第38日目 「世界宣教に生きる」


教会で催される「幸せな家庭や人生」というテーマのセミナーには比較的人が集まりますが、「世界宣教」というテーマには人気がなく、なかなか人も集まらないと言われます。また「日本だって大変なのに、なぜわざわざ海外へ…」という疑問もなくなりません。そんな私たちに、聖書は何と言っているでしょうか?

まずリックウォレンは、クリスチャンにも二種類のクリスチャンがあるといいました。一方は「自分の目的のために、神様を利用しようとするクリスチャン」です。彼らは自分と、自分に属する者にしか興味がなく、その他の事柄ためには興味も犠牲もはらいません。しかしもう一方のクリスチャンは「神様の目的のために、自分を使っていただこうとする」のです。神様の目的とは「大宣教命令」のことです!

世界宣教は、バラバラの世界を再び一つします!世界は一度、バベルの塔(人間の罪)によってバラバラになってしまいました。今日も「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる(マタ24:7)」悲しい現実が続いています。もし私たちが、自分さえ、自分の家族さえ、自分の国さえ救われればよいと考えるなら、私たちも形を変えた「バベルの子孫」ではないでしょうか?でもイエス様は、この地に十字架を中心とした、全く新しい国を打ち立てられました。それが「神の国」です。

神の国には「国境」がありません。国境とは、私達の心にある様々な敵対心、党派心、差別、無関心のことです。しかしイエス様の十字架は、その全ての隔ての壁を崩し、「愛」と「聖霊」によって、再び私たちを「一つ」にしてくださいました。もちろん、それはまだ完全ではありません。でも私達はこの地上でも、その「神の国(御国)の前味」を味わうことが出来るのです。それが、本来の教会の姿です!

神の国はイ、エス様の再臨によって完成します。その日、東からも西からも主の民が集められ、御名が誉めたたえられ、悪は滅ぼされ、「神の国(神の正義)」が実現します。その日がいつなのかは誰にも分かりません。ただ一つ言えることは「福音が全世界に宣べ伝えられ、それから来る」ということです。近年の交通手段やインターネットの発達により、そのスピードは驚異的に速まっています!その日の到来を前にして、あなたは心から「マラナタ(主よ、来たりませ)」と言えますか?

実はジレンマがあります。イエス様を愛すればこそ、神の国が完成を待ち望み、福音を述べ伝えるのですが、そうすると「終わりの日(さばき)」も近づいてしまうのです。自分にとって、その日は喜びなのですが、同時に「まだ困る。私の愛する者がまだ救われていません」との痛みも感じているのです。それは、神様と同じ痛みです。神様も、一刻も早くこの世を救いたいと願いながらも、「ひとりでも滅んでしまうこと」には、胸が張り裂けんばかりの痛みを感じているのです。

私たちには二つのことが出来ます。◆一つは、あなたの心の中のバベルの塔を打ち砕き、無関心という「国境」を取り除くことです。自分の家族、国ばかりではなく、世界に目を向けようではありませんか!◆そしてもう一つは、目の前のひとりのために、心を砕いて「とりなす」ことです。この「痛み」と「とりなし」を忘れてしまったら、私達の世界宣教は空しいものになってしまいます。◆目の前のひとりも、地球の裏のひとりも、神様にはかけがえのない「ひとり」です!

神は、実に、
そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

「主の証人になる」

【ショートメッセージ】
第37日目 「主の証人になる」


私達は、私たちに与えられた最高の奉仕「宣教」について学んでいますが、前回は、あの「大宣教命令」が、教会に与えられた「至上命令」であり、そこに属する一人一人の「人生の目的」でもあることを学びました。今回はその続きです。

そもそも「証し」とは、何を語ることなのでしょうか?ある人は「証し」と「説教」を混同していますが、それは間違いです。説教とは主に二つの部分から成っていますが、一つは聖書の「説き明かし」であり、もう一つは日常生活への「適応」です。それを語るためには、やはり神学校などでの特別な学びが必要となるでしょう。しかし証しとは、自分の人生の中で神様がどのように働いてくださったのかを証言することであり、クリスチャンであれば誰でも語ることの出来ることなのです。

代表的なものに「救いの証し」があります。イエス様に出会う前はどんな生活をしていたのか?また、いつ、どのようにイエス様と出会ったのか?そして、どのようにイエス様の十字架と復活を信じるようになり、信じてどう変えられたのか?今は何を人生の目的にして歩んでいるのか?そのような内容について語ることです。その体験談は、特にキリスト教初心者に強いインパクトを持つことでしょう。

その他にも「クリスチャン版失敗学」があります。「失敗学」とは「失敗からも学ぶこと」ですが、クリスチャンの場合、自分の悟りではなく「神様が教えてくださったことを証言」するのです。あなたにも過去において、失敗や試練の中で、悲しくて、苦しくて、神様を見失い、神様に背いてしまった経験がありますか?そして、その中で特に教えられた御言葉や、新しく発見した神様の真理などがありますか?もしあったら、その体験談を、似た境遇にある人々が待っているのです!

証しをする際、気をつけるべきことがあります。それは正直であることです。感動的に語っても、そこに誇張があるなら神様は喜ばれません。証しは「証言」ですから、「偽りの証言をしてはいけない」のです。また、過去の失敗や、背きの罪を「武勇伝」のように語ってはいけません。あくまで「赦された罪人」として、謙遜に語ることです。そして、くどいようですが、単なる身の上話とならないよう、いつも「神様の良くしてくださった事」を、そのまま語ることが出来ますように。

「証し」の機会は突然やってきます、だから普段から「備え」ましょう。その時が来たら、語ってくださるのは聖霊様です。だから恐れることなく、堂々と話したら良いのです。しかしだからと言って「備える」という私達の責任まで放棄されたのではありません。一度あなたの証しを、祈り、御言葉を引用しつつ、文章にまとめてみてはいかがでしょう?そうすることで、あなたの証しには説得力が生まれ、過去の記憶も整理され、いざという時に、確信を持って語ることが出来るのです。

狼少年はいつも嘘ばかりついていたので、いざという時に信用されませんでした。私たちも普段の言動がいい加減なら、いざという時、どんな立派な証しをしても、誰にも聞いてもらえないでしょう。◆パウロは、最後の最後に「私が神に願うことは、みなが私のようになることです」と答えました。きっと普段から、そう言える生活をしていたのでしょう。だから彼の言葉には、わずかな言葉の中にも、人の心を揺さぶる大きな力があったのです。◆私達の普段の生活はどうでしょう?一番大切な「備え」とは、普段から福音にふさわしく生活することなのです。

あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。
そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。(コロサイ4章6節)

「使命の為に造られた」

【ショートメッセージ】
 第36日目 「使命の為に造られた」


「人生を導く五つの目的」も、いよいよ最後の目的となりました。それは「宣教」です。この世の仕事であれば、いずれ退職もあるでしょう。しかし、この霊的な奉仕には退職がないのです。なぜなら宣教とは、クリスチャンの人生そのものであり、生活の一部だからです。この最高の奉仕について一緒に学びましょう。

ある人々は「大宣教命令」を聞いて戸惑いを覚えます。なぜなら、自分は誰かにバプテスマ(洗礼)を施すことはないし、海外に行って御言葉を宣べ伝えることもない。そういうことは牧師や宣教師のすることではないか?自分は、十字架によって救われ、教会に通い、御言葉を聞ければそれで満足。そもそも、この大宣教命令は、主の弟子(使徒)たちに語られているのではないか、と考えてしまうのです。

しかし、そうではありません。イエス様が天に帰られるとき、イエス様はご自分の、霊的なからだ、すなわち「教会」を地上に残されました。そして天から聖霊を遣わし、今もその働きを支え続けておられるのです。つまり「大宣教命令」とは、この「教会に与えられた至上命令」なのです。教会に属する全てのクリスチャンは、福音を宣べ伝え、この教会の一員として海外宣教を支える責務があります。

パウロはそのことをよく理解していました。彼はこの宣教を「返さなければいけない負債」とか「強いられたにしても、ゆだねられた務め」と表現しました。もちろん彼は、嫌々ながらではなく、使命感に溢れ、時が良くても悪くても福音を宣べ伝えたことでしょう。しかし宣教とは、たとえ「したくなくても」、尊い血潮によって贖われたものとして、「当然神様に返すべき負債」のようなものなのです。

その際、気をつけるべきことがあります。宣教というと、何が何でも「宣べ伝えること」ばかりが強調されますが、「どのように」「誰に」と考えることも大切なことです。聖書にも「豚に真珠を与えるな」とありますが、キリスト教に偏見を持ち、敵意をむき出しにする人々に不用意に語るなら、無益な議論や、争いなどが生じ、全然益にならないばかりか、かえって災いを招いてしまうことだってあるのです。

時には「聞く宣教」「無言の宣教」も有益です。もちろん時をとらえて大胆に語ることは大切です。しかし語りつつ、その人の心をよく「耕す」ことも忘れてはいけません。これには時間がかかりますし、忍耐も必要です。でも遠回りが、実は近道ということだってあります。相手の言葉によく耳を傾け、普段から無言の立ち振る舞いのうちに愛を実践するなら、その人の心は少しずつ耕されていくのです。

伝道と宣教は違います!「伝道」は言葉によることが大きいのですが、「宣教」は、その言葉(福音)を伝えるための、すべての働きを含みます。つまりドルカスの様に「裁縫」をもって宣教を支えることだって出来るのです。◆大宣教命令が「教会」に与えられた命令なら、あなたも、その中で出来る働きがきっとあるはずです。あなたはどのようにして、この「大宣教命令」に従うことがありますか?

「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」 (マコ16章15節)

私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、
教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
(コロサイ1章25節)

「弱さの内に働かれる神」

【ショートメッセージ】
第35日目 「弱さの内に働かれる神」


ここ数回「しもべ」として生きるとはどういうことなのかを学んできました。でも、その「しもべ」を選ばれたのは誰でしょうか?もちろん主人です。この世の主人であれば、なるべく優秀な人材を集めるでしょう。しかし私達の主人(神様)の基準は違っていて、なるべく「愚か」で「弱さ」を持った者を選ばれるのです。

でも「弱さ」ってなんでしょうか。ある人は「弱さを誇る」との言葉を履き違え「弱いままでいいんだ。このままでいいんだ」と自分を甘やかし、更に自分を弱くしてしまうのです。聖書が言うところの「弱さ」とは、自分で願っても、努力しても、どうしても変えられない「現実」のことです。パウロも肉体のとげが取り除かれるように何度も祈りましたが、結果的に取り除かれませんでした。まずは祈り、「心の一新によって自分を変え(ロマ12:2)」ようとすることも大切なのです。

また「誇る」とは「開き直ること」ではありません。聖書は確かに「弱さを誇る」とか「愚かな者を選ばれた」とありますが、それはその愚かさが素晴らしかったからではなく、ただ一方的な恵みによって選ばれたにすぎないのです。なのにある人は自分の「弱さ・愚かさ」を正当化し、上から、この世の知者や強者を非難し始めるのです。その時、私達は「本当の愚か者」となってしまいうでしょう。この言葉は、こんな私さえも選ばれた「一方的の愛」に感謝し、へりくだるためなのです。

では健全な意味で「弱さを誇る」とはどういう意味なのでしょう。それは「弱さ」そのものではなく、その弱さを通しても、ご自身の栄光を現してくださる「神様を誇る」ということなのです。聖書には「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」とありますが、誤解を恐れずに言うなら「自分の弱さ」さえも誇ってはいけないのです!ただ十字架に架かられ、よみがえられたイエス・キリストのみを見上げ、この方を、おのれの誇りとしたいものです。

そして「弱さ」とは、そのために与えられているのです。ある人々は、様々な鎧(よろい)を着こみ「強いふり」をしているかもしれません。自分でも「これで安心だ」と思っているのかもしれません。しかし自分でもどうしようもない「試練」や「とげ」に遭遇し、全ての鎧ははがされ、はだかにされ、何にも頼れず、惨めな自分を発見しても、そんな自分を正直に認め、そのままの姿で、イエス様の十字架に立ち返ることのできる人は幸いなのです。そういう人が、本当に強い人なのです。

あなたの「弱さ」は何ですか?そしてあなたは、その「弱さ」を通しても、神の栄光が現れることを信じていますか?◆まずは鎧を脱ぎ、全てのいいわけ、見栄、プライドを捨てようではありませんか。そういったものが、主の栄光を閉じ込めてしまうのです。◆自分の弱さを認め、イエス様の十字架のみを誇りとして生きていくとき、その「弱さ」が「強さ」に「痛み」が「希望」に変えられるのです!

しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。
私は告白します。「あなたこそ私の神です。」 詩篇31編14節

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に
誇りとするものが決してあってはなりません。(ガラテヤ6章14節)

「しもべとして生きる(下)」

【ショートメッセージ】
第34日目 「しもべとして生きる(下)」


奉仕において大切なのは「心」です。聖書には「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。(箴言16:2)」とあります。ユダのアマツヤ王は「主の目にかなうことを行なったが、全き心をもってではなかった。(Ⅱ歴代誌25:2)」ともあります。私達の奉仕はどうでしょうか?私たちの奉仕(行い)は、純粋な動機から生まれているでしょうか?

不純な動機とは、奉仕を「神様との取引の道具」だと考えることです。例えば、ある人はこのように祈ります。「神様、もしあなたが私を祝福し、この祈りをかなえてくだされば、私はもっとあなたのために奉仕し、もっと献げます」と。またある人はこう祈ります。「神様なぜでしょうか?私はあなたのためにこんなに奉仕し、こんなに献げたのに、あなたはちっとも祝福してくださいません」と。何かがおかしいですね。どうして神様が、その取引に応じなければいけないのでしょう?

またある人は、奉仕を「自己実現の道具」に使います。熱心に奉仕する姿を通して、周りの人々から好かれ、立派だと認められ、自分の人生に充実感が欲しいと思うのです。しかし実際の奉仕はとても地道なものですから、少しやってみて、その充実感が得られず、誰も自分の奉仕に注目してくれないと、ひどくガッカリし、やる気を失ってしまうのです。ともすれば周りの人々を無関心だと責め、かえって教会を混乱させてしまいます。いったい誰のための奉仕だったのでしょうか?

全てが間違っているのではありません。確かに神様は、私達の奉仕を喜び、祝福してくださることもあります。しかしそれは「結果」であって、「目的」ではないのです。この両者を履き違えてはいけません。人からの賞賛も同じです。兄弟姉妹の労は、もっと積極的にねぎらってもよいでしょう。しかし聖書には「あなたは施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい(マタイ6:3)」とありますから、奉仕する本人はそれを当然の権利を考えてはいけないのです。ましてや「誰からも感謝されない」と不満に思うのは見当違いです。

そもそも奉仕は、誰のためなのでしょうか?もちろん神様のためです。でも多くの人は「自分の祝福」や「自己実現」という「自分の目的」のために、神様を利用しようとしているのです。それは奉仕ではありません。奉仕とは、神様の目的のために、自分を使っていただくことなのです。私達は、主のしもべです。しもべが、主人のために何かをしても、「当然のことをしたまで」なのです。「自分の権利」を主張せず、自分を「無」にし、純粋な、心からの奉仕を捧げたいものです。

純粋な動機で主に仕えるとき、しもべ同士の関係も良くなります。自分の権利を主張し、主人の様になろうとするから、裁き合いやイガミ合いが生まれるのです。◆しかし私達はしもべに過ぎません。皆が同じ主人を見上げ、同じ主人に仕えているのです。そしてその一番低いところには、イエス様の十字架があるのです。

それで、主であり師であるこのわたしが、
あなたがたの足を洗ったのですから、
あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
(ヨハネ4章14節)

「しもべとして生きる(上)」

【ショートメッセージ】
第33日目 「しもべとして生きる(上)」

私達の身の回りには「サービス」があふれています。どのお店でも、少しでも良いサービスを提供し、顧客を獲得しようとしのぎを削っています。特に日本のサービス業は、世界でもトップクラスだと言われますが、そんな社会で生活していると、ついついサービスを「受ける」ことが当然の権利であるかの様に思ってしまうのです。でも私達は「神と人とに仕えて生きることも」忘れてはいけません。

チャーチ(教会)ショッピングという言葉があります。「この教会では、どんなサービス(プログラムやイベント、クラス)を提供していますか?」「私の家族に、何か良いサービスがありますか?」と教会を渡り歩くことです。主にアメリカでのことですが、その姿がまるでサービスの良い、お店を探す姿に似ているので「チャーチ・ショッピング」という名前がつきました。誰にとっても、仕えられることは気持ちの良いものです。少しでも安くて、良いサービスが魅力的なのです。

でもサービスは本来「捧げるもの」です。面白いことに英語では、「礼拝」のことを「サービス」と言います。また「奉仕する」を「サーブ」といいます。つまりサービスとは、被造物であり、「主のしもべ(サーバント)」である私たちが、神様に心をこめて「捧げるもの」なのです。受けることばかりを期待するのは、健全な信仰ではありません。私達は、クリスチャンとなり、キリストのからだ(教会)の一部となった瞬間から、「礼拝」と「奉仕」を捧げる者とされているのです。

では良いしもべとは、どういう人のことなのでしょうか?まずは少年サムエルが「しもべは聞いております」と言ったように、いつでもどこでも、主の呼びかけに応えられる心の準備をしている人のことです。また百人隊長のように、「行け」と言われれば即座に出て行き、「これをせよ」と言われれば、先延ばしにもせず、すぐに実行できる人のことです。つまりは、自分の主人が誰であるかを自覚し、その方の権威に服従し、徹底的に「従順」であることが求められているのです。

私達はどうでしょう?御言葉の内に、主の御声を聞いて、それに従っているでしょうか?間違った、この世の主人に従ってはいないでしょうか。人の言葉や評価が、あなたの主人となってはいないでしょうか。自分の気持ちや都合が、あなたの主人となってはいないでしょうか?どうか間違ったものの奴隷となってしまわないように!あなたは「神の友」であり「しもべ」です!!!神の国とその義とを第一に求め、心のこもった「礼拝」と「奉仕」を捧げることが出来ますように。

イエス様が、私達のことを「神の友」とも読んでくださることは慰めです。単なるしもべであれば、それこそ雇われ根性で、主人に仕えてしまうかもしれません。しかしイエス様は、私達を「友」と呼び、十字架にかかるほど愛していてくださったのです。◆この愛を知っているから、私達は「いやいやながらではなく、強いられてでもなく」心から喜んで、この方にお仕えすることが出来るのです。

人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、
キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ないなさい。
このような人が、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。
(エペソ6章6-7節、ローマ14章18節 要約)

月曜日, 3月 19, 2007

与えられているものを活用する

【ショートメッセージ】
第32日目「与えられているものを活用する」

私達は「奉仕」について学んでおりますが、今日は「タラントのたとえ」から教えられたいと思います。タラントは、英語「タレント(能力のある人)」の語源ともなっています。その価値は、1タラント=6000デナリ(日当)≒6000万円とかなりの金額です。ここから、何を学ぶことが出来るのでしょうか?

まずは、誰でも能力に応じて賜物を任されている、ということです。一タラントと聞くと「少ないな」と感じる人がいるかもしれません。でも決してそんなことはありません。1タラントだって6000万円、かなりの金額です。確かに人によって、任されるタラント(賜物)の量は違います。しかし大切なのは「量の多少ではなく、すでに与えられたものを、どう用いるか」なのです。誰も0タラントの者はいませんでした。誰もがもうすでに、思う以上に、多くを任されているのです。

では、一タラント預かった者の間違いは、何だったのでしょか。それは彼が、預かったものを全く活用せず、ただ土を掘って埋めておいたことです。なぜ彼は、そんなことをしたのでしょうか?もしかしたら、自分のタラントが他の人よりも少なかったので、へそを曲げたのでしょうか?それとも主人のことを、必要以上に恐ろしいと勘違いしていたからでしょうか?その両方かもしれません。しかし致命的だったのは、彼が、「主人の心(目的)」を全く理解していなかったことです。

主人は、何のために、大切な財産を、しもべに預けたのでしょう。もし保管しておくだけだったら、金庫に入れたり、銀行に預ければよかったでしょう。でも主人は、それを敢えて、間違いを犯すかもしれない「不完全なしもべ」に任せたのです。それはしもべが、主人の心を理解し、期待に応え、その財産(タラント)を立派に増やすためだったのです。もしそうだとすれば、努力した結果、目に見える実を結べなかったとしても、主人は「その努力」を喜んでくれたに違いありません。

私達はどうでしょう?自分のためではなく、神様の心を理解し、その期待に応え、神と人とのために、自分のタラント(賜物)を活用しているでしょうか?「自分の賜物が分からない」と言われる方がいるかもしれません。もしそうならなお更、自分の賜物を活用してください。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、何もしなければ、いつまで経っても自分の賜物を知ることは出来ないのです。私達は自分自身を、神と人とのために使ってみて、改めて自分の賜物を知るのです。

リック・ウォレンは「賜物は筋肉に似ている」と言いました。筋肉は、何歳になっても、使えば増えるそうです。でも何もしないで、寝てばかいりいると、だんだんとしぼんでしまうのです。◆賜物も同じです。使っていると更に豊かに与えられるのです。でも「そんな賜物は私にはありません」と最初から決め付け、何もしなければ、本当に何もなくなってしまうのです。だからぜひ新しい奉仕にもチャレンジしてみてください。神と人とのために、自分を活用してください!!

あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
その実が残るためなのです。
(マタイ25章16節)

火曜日, 3月 13, 2007

自分の経験をもって主に仕える

【ショートメッセージ】
第31日目「自分の経験をもって主に仕える」


「神と人とに仕えて生きる」と題し学んでいますが、今日は私達の「経験」が、どのように奉仕に生かされるか、をともに学びたいと思います。全ての人の「指紋」が違っているように、私たちが人生に残してきた「あしあと」も違っています。日本では、人と違っていることは恥ずかしいことだと思われがちですが、神様は、あなたの経験を、神と人とのために役立てたいと願っておられるのです。

聖書の原則は「苦しみを通った人が、同じ苦しみの中にある人を助けられる」です。イエス様はペテロにおっしゃられました。「もしあなたが立ち直ったら(同じ弱さを持っている)兄弟たちを力づけてやりなさい」と。そしてその通りペテロは、初代教会において、愛と哀れみをもって、信仰的に若い、多くの兄弟姉妹を励ましたのです。イエス様も同じです。イエス様は地上において、あらゆる苦しみを経験されたので、あらゆる苦しみの中にいる人々を救うことが出来になるのです。

ただし誰も一人では「完璧な苦労」を経験することは出来ないのです。牧師は聖書を専門的に学び、全体的な視点から、福音を語ることが出来ます。しかしそれだけでは物足りないと感じる人がいても仕方がないのです。だからこそ信徒の「証し」が大切なのです。障害をもったお母さんの気持ちは、同じ立場のお母さんが一番よく分かるでしょう。離婚を経験された家庭の苦労は、同じ立場の方が一番よく分かるのです。そうした交わりの中で、信仰に深い理解が与えられていくのです。

ただし経験には「落とし穴」もあります。聖書には「知識は人を高ぶらせる」とありますが「経験によっても」人は高ぶってしまうのです。「私はこんな経験をしたのに、あなた方はしていないでしょう。だから分かるはずがないのです」と、無意識に裁いてしまうのです。また、似たような経験をしていると、「あなたも私と同じ気持に違いない」と勝手に決め付け、かえって相手を傷つけてしまうことだってあるのです。自分の経験を誇ったり、安易に頼ったりしてはいけないのです。

私達は、パウロの「ちりあくた」の姿勢に学びたいものです。パウロほど色々な経験をした人はいません。救われる前に受けた学問教育が、思いがけず福音宣教に役立ちました。それでも彼は、その家柄や教養を「ちりあくた」だと呼んでいます。また伝道のために世界中を旅し、あらゆる困難と迫害を経験しましたが、その苦労話でさえ「武勇伝」とはせず、自分の「弱さと十字架のみ」を誇りました。そのような謙遜さがあったからこそ、彼の「経験」は、神様に用いられたのです。

ステンドグラスを思い出してください。色々な「かたち」と「色」のガラス片があります。どれか一つが欠けても、目立ちすぎても「絵」になりません。全てが調和するとき、美しい「作品」となるのです。◆経験も似ています。目立つ経験も、目立たない経験もあるでしょう。しかし皆が一つ心となり、十字架のもとに自分の経験を持ち寄り、「主よ用いてください」と捧げるなら、そこに「イエス様のからだ」が浮かび上がってくるのです。それこそ神の作品「教会」なのです。

しかし私には、
私たちの主イエス・キリストの十字架以外に
誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、
私も世界に対して十字架につけられたのです。
(ガラテヤ6章14節)

火曜日, 2月 27, 2007

賜物をもって神と人とに仕える

【ショートメッセージ】
第30日目 「賜物をもって神と人とに仕える」

私達は「奉仕」について引き続き学びます。前回は、奉仕の基礎は「キリストへの愛」だと学びました。自分の幸福ばかりを求めていても、幸福にはなりませんし、嫌々ながら奉仕に打ち込んでも、楽しくないばかりか、神にも人にも喜ばれないのです。ではいったい、どのような心で奉仕をしたらよいのでしょうか?

賜物にふさわしく奉仕をしなさい。聖書には「からだ(教会)全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、成長し、愛のうちに建てられる(エペソ4:16)」とあります。つまり人には、神様から与えられた「賜物」と「力量」があるのだから、それを発見し、自分の力量をわきまえ、神と人とのために用いることが大切だということです。そうする時、キリストのからだは力強く成長し、そこに集う一人一人は、本当の意味での「幸福感」と「充実感」を味わうのです。

しかしなかなかそうはいきません。リックウォレンは、ありがちな二つのケースを取り上げています。一つは自分を卑下し、賜物を地面に埋め、そのまま台無しにしてしまうケースです。そういう人は、賜物の豊かな人を見ては、うらやましく思い、ますます落ち込んでしまうのです。もう一つのケースは、人と比べ、自分の賜物を誇り、自分の「やり方」こそ霊的であると信じ、押し付け、ついて来れない人を裁いてしまうケースです。どうして、そうなってしまうのでしょうか?

もしかしたら不安なのかもしれません。神様は「もう既に」「溢れるほど」与えてくださっているのに、それが信じられないから、人と比べ、時には非難し、安心したいのかもしれません。でも人と比べ始めたとたん、私たちは更に不安になってしまうのです。とかく「隣の芝生は青く」見えるものです。人と比べても何にもなりません。「既に」与えられていると信じ、謙遜に用いることが大切なのです。

でもどうしたら「その賜物」を見つけられるのでしょう?黒澤明監督は言いました。「とにかく好きなことを見つけなさい。無心になって打ち込める何かを見つけなさい。それが将来、君たちの立派な仕事となるでしょう」と。クリスチャンの奉仕も似ています。「奉仕」とは、したくもないことを、嫌々するものではありません。まずは自分の好きなことを見つけ、それを神と人の役にたつように磨くのです。そして賜物に相応しく、喜び、感謝をもって奉仕をするのです。そうすれば他人の評価も気にならなくなるでしょう。だって自分が楽しんでいるのですから♪

ペテロをはじめ多くの弟子達は漁師でした。しかし漁が「そのまま」彼らの奉仕になったのではありません。彼らは一度、網をはじめ「全て」を捨て、イエス様について行きました。その結果彼らは「人間をとる漁師」とされたのです。◆私たちも同じです。得意なことを、ただ気ままにしていれば良いのではありません。一度はそれを主に捧げ、あるべき優先順位の中で、主を第一について行くのです。その時、単なる興味と得意分野が「聖められた霊的な賜物(奉仕)」となるのです。


イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。
あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨てて従った。
(マタイ4章19-20節)

ここに少年が
大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。
イエスは…彼らにほしいだけ分けられた。
すると、人々が食べたうえ、
なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
(ヨハネ6章9-13節)

水曜日, 2月 14, 2007

本当の奉仕とは

【ショートメッセージ】
第29日目「本当の奉仕とは?」

今日から新しい学びが始まります。それは、5つの目的その4「奉仕:神と人とに仕えて生きる」についての学びです。教会では、よく「奉仕」といわれますが、どうして奉仕がそんなに大切なのでしょうか?そもそも「奉仕」とは何なのでしょうか?そんなことについて、7回に分けて、少しずつ学んでいきましょう!

世の中は空前の「自己啓発ブーム」です。本屋をのぞけば「自分がどうしたら豊かに生きられるか」「影響力のある人間になれるか」「金持ちになれるか」といった自己啓発の本がびっしり並んでいます。他にも「健康ブーム」だったり、「スピリチュアルブーム」だったり色々ありますが、結局は同じことです。人は、手を変え、品を変え、昔も今も、結局は「自分」にばかり関心を向けているのです。

クリスチャンはどうでしょうか。世の中の影響が多少なりともあるのではないでしょうか?「クリスチャンの幸せ」「賜物」「豊かさ」というセミナーはたくさんあります。そういう働きも大切です。でもそれだけでは「自己啓発」と変わらないのではないでしょうか?私達は「自分以外の人々」にも関心を持っているでしょうか?学んだことや聞いたことを、他の人々のためにも活かしているでしょうか?

聖書は厳しく「自分だけ幸せになりたい教」を戒めています。イエス様は「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」と言われました。金持ちの例えはもっと明らかです。金儲けがいけないのではありません。ただ多く与えられた者は、神と人のためにそれを用いることを求められているのです。それを悟らず、自分のためだけにそれを蓄えようとした金持ちは、結果的に「いのち」を失ってしまいました。

しかし「自分を粗末にしても」いけないのです。もしあなたが、嫌々ながら、無理やり、神と人とに仕えているのなら、知らない間に、人にも同じことを強要し、自分よりも幸せで自由な人を妬む「パリサイ的クリスチャン」になってしまうでしょう。「自分だけ」はいけませんが、「自分も幸せ」になることは、私たちが思う以上に大切なことです。そのためにも「健全な意味での自己投資」が必要となります。

健全な意味での自己投資とは何でしょうか?それは、十字架に根ざし、神の愛をしっかりと心に蓄えることです。聖書にはこうあります。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立ちません。(Ⅰコリント13:3)」◆自分が祝福されるためではなく、救われるためでもありません。ただイエス様の愛に感動し、その一方的な愛に押し出されたから、兄弟のために生きるのです。この「愛の基礎」から生まれるものが「本当の奉仕」であり、天に宝を積む「良い行い」なのです。

キリストは、私たちのために、
ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは、兄弟のために、
いのちを捨てるべきです。
(Ⅰヨハネ3章16節)

時間がかかる

【ショートメッセージ】
第28日目 「時間がかかる」

今回も含め7回「聖め:神のかたちの回復、自己中心からの解放」と題して学んできましたが、今日で最終回になります。前回は「聖化への近道はなく、誘惑に打ち勝つテクニックもない。まずはイエス様の十字架の恵みに立ち返るべきだ」とお話しました。その上で、今回はもう少し具体的に、お話したいと思います。

聖められるためには、砕かれなくてはなりません。聖書には、神様が陶器師で、私たちは粘土であると書かれています。しかし長年の間に、私達は勝手なものを色々とくっつけてしまっているのです。ちょっとしたものなら、神様はパキンと割って取り除いてくださるでしょう。しかしあまりにもひどい場合、神様は元の「神のかたち」を回復するため、それを粉々にし、造り直さなければいけないのです。

それには痛みをともないます。だから私達は「轆轤(ろくろ)」から飛び出します。でもそこに本質的な解決はありません。逃げ回れば、逃げ回るほど、問題も大きくなり、私たち追いかけて来ます。そして段々と誤魔化せなくなり、いたる所に「歪(ひずみ)」が生じてくるのです。それでも「まだ大丈夫」「もうちょっと」「これくらい…」と言い訳を続けるのが私です。だから時間がかかるのです。

時には負け癖がついていることもあるでしょう。もう何年間も負け続けているので「今さら…」と自分で決め付けているのです。でも遅すぎることはありません!聖書には「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません(ヤコ1:22)」とあります。どんな小さなことでも、示されたらすぐ実行するのです。最初はすごくエネルギーが要るかもしれませんが、その繰り返しが、新しい習慣を生み、新しい習慣が「聖い品性」を形作るのです。

人からのサポートも不可欠です何度も言うように私達は弱いのです。特に人が一人でいるのは良くありません。信頼できる、できれば同性のクリスチャン・パートナーを見つけ、折に触れ一緒に祈ることは大切です。往々にして、私達のプライドや、隠された罪責感が、私達の「負け癖」を深刻化させているのです。神様と、人とに心を大きく開くとき、そこに聖霊の風が吹き込み、心を癒すのです。

あきらめてはいけません。むしろ、最初から時間がかかるものだと思いましょう。10年かけて身につけた癖なら、最低でもその半分5年はかかると思いましょう。もしかしたら、その完成は、御国においてかもしれません。◆テレビの「あるある」や「ダイエット広告」のように、耳あたりの良い「手っ取り早い方法」に騙されてはいけません。心の体質改善にも、地道な努力と忍耐が必要なのです。

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、
キリスト・イエスの日が来るまでに
それを完成させてくださることを
私は堅く信じているのです。(ピリピ1章6節)

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、
何一つ欠けたところのない、
成長を遂げた、完全な者となります。
(ヤコブ1章4節)

火曜日, 2月 06, 2007

誘惑によって造りかえられる②

【ショートメッセージ】
第27日目「誘惑によって造り変えられる②」
前回も「誘惑」について題し学びました。その中で私達は「欲」そのものは罪ではないが、それに「囚われ」、それを神様よりも大事な「偶像」にしてしまうことが問題で、それを「不正な手段」により満たすことが「罪」であると学びました。今日はその学びの後編です。一体どうしたら誘惑に勝利できるのでしょうか…。

ローマ人への手紙7章で、パウロが「律法的な生き方」をしていたとき、すなわち自分の力で、神の基準に到達しようとしていたとき、彼は自分が「したいと思うことすら出来ない、本当にみじめな人間であること」を発見しました。そのことは私たちも経験済みでしょう。人間的な努力や「すがるな、さわるな」といった禁欲主義は、結局のところ、一時的な自己満足はあっても、生まれ持った「欲」に対しては何の力もないのです。

しかしパウロは、続くローマ8章で一転しています。彼は「これら全ての中にあっても、私達は圧倒的な勝利者です」と宣言しているのです。一体何があったのでしょうか?一つ言えることは、「彼が肉的なことを考えるのを止め、御霊に属することをもっぱら考えるようになった」ということです。言い方を変えれば、パウロは肉の欲に対しては、闘う前に、考えること自体を止めてしまったと言うことです。

多くの誤解があります。「神様この誘惑に勝利させてください」と熱心に祈っても、それに勝利することはできません。なぜならその人は、あまりにも「その誘惑に」集中しているからです。目の前にニンジンをつるしておけば、それが欲しくなるでしょう。食べてしまうのは時間の問題です。ダイエットに失敗する人、禁酒禁煙に失敗する人も似ています。止めたいと言いながら、頭の中でそのことばかりを考えているので、それを止めることは出来ないのです。

まず、そのことについて考えるのを止めなさい一人でいる時はなお更です。誘惑の原因となるものからは、物理的にも遠ざかりましょう。売り場にも近づかないことです。規則正しい生活をし、仕事に打ち込み、そのことばかりを考えない環境をつくることも大切です。怠惰は、敗北への道です。

しかしここに来て私達はまた振り出しに戻ります。「考えないようにする」というのは、結局「すがるな、さわるな」という律法主義の延長なのではないかと…。それだけでは、やはり根本的な解決はないのです。「考えるな」と言われても考えてしまい、「止めろ」と言われても止められないのです。そんな自分にガッカリし愛想が尽きるころ、イエス様の愛がふとせまってきます。「イエス様はそんな私のために、十字架に架かってくださった…!そして今も父なる神の右におられ、こんな私のためにとりなしていて下さる!」と。

このことを知れば知るほど。その愛の大きさに圧倒され、「すがるな、さわるな」「肉に属することを考えるな」と禁じられなくても、イエス様のことで頭がいっぱいになって、悲しまれることをしたくなくなるのです。◆これが、パウロが経験した、律法主義に優る「自発的な愛」です。誘惑に打ち勝つ、テクニックなんてもともとありません。本当の愛を知るとき、人は自ら変わろうとするのです。つづく・・・。

死んでくださった方、
いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちは、私たちを愛してくださった方によって
圧倒的な勝利者となるのです。
ローマ8章34、37節

水曜日, 1月 24, 2007

誘惑によって造りかえられる

【ショートメッセージ】
第26日目「誘惑によって造り変えられる①」

今回のテーマは「誘惑」です。誘惑は前回もお話した通り、試練とは違い、私たちを神様から引き離そうとする、肉やサタンからの攻撃です。しかし、この誘惑でさえ、私たちがどのように対処するかによっては、神の栄光のために用いられるのです。2回にわたり「誘惑によって造りかえられる」と題し学びましょう。

まず確認しておかなければならないのは、「欲」そのものは罪ではないということです。代表的なものに「性欲」「金銭欲」「名誉欲」などがありますが、それらでさえも正当な方法、つまり結婚とか地道な労働によって満たされるのなら「良いもの」なのです。ただ、それ自体が神様よりも大切な偶像になってしまったり(コロ3:5)、聖書の基準から逸脱した手段によって満たそうとするときに罪となるのです。

たとえ罪ではなくても、放っておくと「罪」を生みます。イエス様は「情欲を抱いて女を見る者は」と言われました。この「情欲」と「欲」とは違います。異性を見て「素敵だなぁ」と思うことはごく自然なことで、罪悪感を覚える必要はありません。しかしその相手によって自分の欲を満たしたいと妄想することは「情欲」であり、実行することにより「罪」となるのです。ダビデは妄想し、行動に移しました。エバもおいしそうな木の実を凝視し、味を妄想し、誘惑に負けてしまったのです。

小さな誘惑であれば自分の意志でも何とかなるかもしれません。でもそうできないときもあるのです。一度、自分の心の大部分を占めてしまったものは、なかなか脳裏から離れず「すがるな、さわるな」と禁じられれば禁じられるほど、衝動は強くなってしまうのです。異性、金、権力の他にも、酒、暴飲暴食、衝動買い、借金、噂話、インターネット、自己憐憫など中毒性のあるものは何でも同じことです。自力で闘おうとすればするほど、コントロールできない、惨めな自分を発見するのです。

もっと深刻なのは、心のどこかで、そんな自分を許してしまうときです。私達は驚くほど自分には寛容です。「止めたい」と思っていても、心のどこかでは「実はこのままでもいいや」「もうちょっと楽しみたい」「まだ大丈夫だろう」と言い訳し、なかなかその誘惑から離れようとしないのです。クリスチャンなら「イエス様はきっと赦してくれる」と、最初から高をくくってしまうこともあるのです。

またイエス様も、そんな人を放っておかれることがあります。そして「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み」始めるのです。時には、健康を損なったり、職を失ったり、家庭が壊れてしまうときもあります。でもそこでようやく私たちは自分の愚かさに気づき、真剣に「変わりたい」と願い始めるのです。それは苦しい体験ですが、悔い改めによって、信仰の「人生第2ラウンド」が始まるのです。

ルターは、こう言いました。「誘惑を受けたことが、私にとっての神学教育でした」と。誰でも誘惑されます。口にはしなくても、同じようなことを経験しているのです。しかしそこから何を学ぶかは、人によって違います。主にある人は、誘惑にあっても、そこから金よりも貴い「教訓」と「知恵」を学び、栄光方栄光へ、勝利の人生を歩むことができるのです。詳しくは次回に続く・・・。

訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。 箴言8書33節

月曜日, 1月 15, 2007

試練によって造り変えられる

【ショートメッセージ】 第25日目「試練によって造り変えられる」
今回のテーマは「試練」ですが、主の祈りにもあるように、できれば試練は会いたくないものです。また「なぜ試練があるか」なんて、本来、神様の領域に関わることなので安易に説明しないほうが良いとも思います。一歩間違えばヨブの友人になってしまいます。でも今回はあえて、その難題に取り組みたいと思います。

よく「試練」と「誘惑」を混同している人がいますが、この両者は全くの別物です。「誘惑」とは私たちを神様から引き離そうとする、肉やサタンの攻撃なのですが、「試練」とは、私たちを神様に近づける聖霊の導きなのです。きっと多くの人が「試練」の中で、神様を近くに感じるのもそのためです。「誘惑」からは身を避け、場合によっては闘わなければなりません。しかし「試練」からは逃げず、信仰をもって受け止め、その先にある希望を見つめることが大切なのです。

試練によって、私達は忍耐を学びます。現代人は、何にでもスピードを求め、まるで時間さえも支配する神の様にふるまっています。しかし大きな試練に会うとき、私達は今更ながら、自分が全く無力な「被造物」にすぎないことに気づくのです。そして、ひたすら「神の時(解決)」を待つのです。それは実にもどかしいことなのですが、その中で私達は、人としての「謙遜さ」と「忍耐」を学ぶのです。

また、試練は私たちを練り聖めます。聖書には「霊の父は、聖さにあずからせるために、愛する子を懲らしめられる(ヘブ12:10)」とあります。この「聖さ」とは「練られた品性」ともいいます。もし神様を恨み、もがき苦しめば、その人からは、いじけた雰囲気や、怒りしか生まれません。しかし神の愛を信じ、信仰を持ってその試練を乗り越えた人からは「かぐわしいキリストの香り」が漂うのです。

最後に試練は私達の心を呼び覚まします。いくら大丈夫だと思っていても、私達の心は、放っておくと次第に「脂肪のように鈍感(詩篇119:70)」になり、地上における「半径1メートルの幸せ」しか考えられなくなってしまうのです。そこで神様は、その人に期待すればこそ「試練」を与え、「この世では寄留者に過ぎないこと」と、「永遠のいのちへの希望(ロマ5:5)」を、新たにされるのです。

刺繍を思い出してください。裏から見ても、糸が複雑に絡み合っていて決して美しいとはいえません。でも表から見れば、美しい一つの模様になっているのです。◆試練もそれに似ています。私たちの目には決して喜ばしいものではありませんが、信仰により神様の視点から見つめなおす時、そこにも「愛」の一文字が浮かび上がってくるのです。◆この信仰の目を失ってしまうとき、私達は「試練」と「誘惑」の区別がつかなくなってしまいます。そしてある者は、神を恨み、信仰から脱落してしまうのです。でも最後まで神の愛を信じ、耐え抜いて良しと認められた人には「いのちの冠」が待っているのです。その時、全ての疑問は解決され、心からハレルヤと賛美できるのです。

神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
ローマ8章28節

木曜日, 12月 21, 2006

Xmas

岐阜ラジオ
「クリスマスについてのインタヴュー」
イ:インタヴューアー桃井沙央理
牧:川村真示牧師

1.クリスマスは何の日?

イ:最近日本でもクリスマスは、すっかり定番行事となりました。特に日本では、恋人同士のイヴェントとなっていますが、本来クリスマスとは何の日なのでしょうか?

牧:いい質問をありがとうございます。確かに最近の日本でも、クリスマスは年々、盛大イにお祝いされるようになって来ましたね。でも、どれだけの人が、その意味を考えているのかと言うと、少し疑問になります。
  
大学生のころ、こんなことがあったんですよ。ある時、友人がこう聞くのです。
「おい川村、お前のお父さんも牧師なんやろ。だったらクリスマスって何の日なんや、教えてくれよ?」でも、別の友人が、われ先にとこう答えたのです。
「あぁ、それ俺しっとるぞ。クリスマスって、キリストの死んだ日なんやろ!?」
まぁもちろんそれは、ふざけてのことなんですが、本気だったら寂しいですよね。

ほとんどの方はご存知だと思いますが、クリスマスとは、「キリストのお生まれになった日」をお祝いする日のことです。このクリスマスという言葉の意味ですが、クリスとは、「クライスト」のこと、つまり「キリスト」のことです。(日本ではXmasと書きますが、あれがギリシャ語のクリストスの頭文字です。そしてマスとは、ラテン語の「ミサ」つまり礼拝のことなのです。)

そう考えると、本来のクリスマスの過ごし方とは、もちろん家族や恋人と過ごすのもいいのですが、できたらみんなで教会に行き、祈り、賛美歌を歌う、そんな過ごし方もいいのではないでしょうか。

少し余談になりますが、このクリスマスって世界共通語ではないのですよ。私は3年半、ドイツにいましたが、ドイツではクリスマスのことを「Weihnachaten」といいます。これは英語でいうところの「Holy night・聖夜」のことなのですが、私はてっきり、クリスマスは(マ
クドナルドと同じで)「世界の言葉」だと思っていましたので、始めの頃、クリスマスを「Weihnachaten」と呼ぶことに、すごく抵抗があったのを覚えています。

2.サンタクロースとクリスマスの関係?

イ:牧師さんのお話しを聞いていると、クリスマスの本当の主人公は「キリスト」だった、ということになりますね。でも日本のクリスマスでは、むしろサンタクロースのほうが有名だと思います。このサンタクロースとクリスマスの関係は何でしょうか?

牧:そうですね。実は、クリスマスとサンタクロースは、元々、別な行事だったのですよ。夢を壊すようなことを言って申し訳ありません。(良い子は耳を塞いでくださいね…(笑)先ほどドイツにいたと言いましたが、ドイツではいまでも、地域によって差はありますが、サンタクロースの日を、クリスマスとは別の126日にお祝いしています。

サンタクロースとは、ラテン語で、サンクトゥス・ニコラウスといい、有名なカトリック教会の司祭の名前でした。それがオランダ語、シンタクラースとなり、それが英語圏で、サンタクローズとなり、日本語でサンタクロースとなったのです。

しかも、このニコラウスさんは、フィンランドでもノルウェー出身でもなくて、紀元4世紀頃の小アジア、現在のトルコのお方であったそうです。ショックなことばかりいって申し訳ありません。でもガッカリしないで下さい。このニコラウスさんはとても優しいお方だったのですよ。こんな逸話が残されています。

「ある時に、非常に貧しい家庭がありまして、借金のために、三人の娘を身売りさせなければいけないことになってしまったのです。そしてお父さんは、そのことを本当に心からを悲しんでいました。その話を偶然、ニコラウスさんが知ってしまったのです。そこで、ニコラウスさんが、どうしたのかといいますと、夜中こっそりと窓から、金貨の入った袋を三つその家に投げ込んだのです。するとそのうちの一つが、たまたま暖炉の前に駆けられていた靴下の中に入った」そうなのです。

イ:だから今でも、靴下の中にプレゼントを入れるという習慣があるんですね。

牧:そうなんですよ。ちなみに、現代のような少し太っちょで、トナカイに乗って、クリスマス・イヴに、子供達にプレゼントを配るようなサンタクロースのイメージは、19世紀のニューヨークで生まれたといわれています。またその後、このサンタクロースの、赤と白というテーマカラーが買われて、ある清涼飲料水企業(コカコーラ社)のイメージキャラクターに大抜擢されたわけですね。そのことが、この現代版サンタクロースが、これほどにまで世界中に広まった理由だといわれています。夢を壊すような話で申し訳ありません。

3.なぜクリスマスにプレゼント交換?

イ:確かにちょっとショックですね…。でも、そうなると、クリスマスとサンタクロースは、それほど関係ないということになってしまいますが、そこのところ一体どうなんでしょうか?このままでは、ちょっと寂しい気もしますが…。

牧:ええ、心配しないで下さい。このサンタクロースが、クリスマスに活躍するようになったのにも、実は深い意味があったのですよ。よい子のみんなも、この部分は、ぜひ聞いてほしいのですね。本当の意味で大切なのは、サンタクロースの背中に乗っている、あの袋のプレゼント、あれが大事なんです。

イ:やっぱりそうですよね。私もプレゼントは大好きです。(笑)

牧:私もプレゼント大好きですよ。(笑)聖書にはこんな言葉があります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ316節)

難しく聞こえるかもしれませんが、簡単に言えばこういうことになります。
  
つまり、サンタクロースの背中にある、白い布でくるまれたあの大きなプレゼントには、クリスマスの日に、家畜小屋で生まれて、白い布にくるまれていたイエス・キリスト本人、という意味があるのです。そして、そのキリストが、大きくなって、いのちをかけて、私達の罪のために、十字架にかかって死んでくださった。そしを信じるものはみな、タダで「永遠のいのち」が与えてられる。そういった意味がぜーんぶ、ひっくるまれて、あのプレゼントとなっているわけです。つまり、クリスマスの最高のプレゼントは、イエスキリスト本人だったのです。そしてサンタクロースは、「天のお父様(神様)」を表しているのですよ。

4.教会のイヴェント案内

イ:う~ん、ちょっと難しいですが、一つ分かったのは、自分が今までいかに、意味を考えないで、クリスマスをお祝いしてきたか、ということです。ところで、この岐阜キリスト教会では、クリスマスに何かイヴェントがあるのでしょうか?

牧:はい。ご案内いたします。1224日(日曜日)クリスマス・イブですが、午後6時から、キャンドル・サーヴィスといって、賛美歌を歌い、簡単な聖書の話しを聞く時間を持ちます。大体1時間くらいなのです。これはもちろん無料ですし、クリスチャンでない方も大歓迎です。

その後に、「祝会」といって、美味しいケーキを食べながら、お祝いのひと時を持ちます。またその中で、岐阜キリスト教会の名物の、子供達による聖誕劇・オペレッタが演じられます。(オペレッタとは、歌で綴る、オペラの、もっと短いもののことです。)素晴らしいですよ。ぜひおいでください。

ちなみに、この『祝会』の方にご参加の方は、ケーキ代など、本来300円が必要となります。でも、この番組を聴いて、始めてお越しくださった方は無料いたしますので、ぜひ多数でお越しください!お待ちしております。

イ:どうも今日は貴重なお時間をありがとうございました。

牧:いえいえ、こちらこそありがとうございました。

木曜日, 12月 14, 2006

御言葉によって変えられる

【ショートメッセージ】 第24日目「みことばによって変えられる」
今回のテーマは「真理のみことば」ですが、このみことばこそが、私たちを内から聖め、キリストに似たものと変えてくださるのです。しかし、このみことばが、私達の血となり肉となるためには、少しばかりの「秘訣」が必要となるのです。

規則正しい霊育こそが、健全な霊性を育てる。最近、食育という言葉がよく登場しますが、特に大事なのは「朝食」だと言われています。この朝食を抜いていると、脳の働きが悪くなり、徐々に体も弱ってきて、病気にかかりやすくなるというのです。「いのちのパン」も同じではないでしょうか?何か問題が起こってから、一度にたくさん食べても、霊的消化不良をおこしてしまうでしょう。しかし毎朝、規則正しく、適量食べることで、私達の心は育ち、霊性も整えられていくのです。

また良く噛まなければなりません。みことばには、柔らかいものと、硬いもの。そして分かり易いものと、分かりにくいものがあります。後者の場合、私達は「黙想する」という手段によって、みことばを何度も反芻する必要があります。また、聖研などで、みんなの意見を聞くことも大切でしょう。そして、週に一度は牧師に噛み砕いてもらい、どんなみことばもバランスよく食べることが大切なのです。

では、いのちのパンの栄養価は何でしょうか。まず私達の「心の目」を良くし、何が真理であるのかを、よく見極めることが出来るようになります。そして「心の耳」を良くし、聖霊の細き御声が、よく聞こえるようになります。その他にも、冷えきった心を「暖め(燃やし)」、鉛のように重たい心を、羽のように「軽く(自由)」にします。悪魔が放つウイルスも、健康な人の心を病気にすることは出来ません。

くれぐれもメタボリックには気をつけましょう。最近、中高年の二人に一人が「肥満」だと言われています。肥満は、あらゆる病気を引き起こします。様々なダイエット方法がありますが、やはり一番良いのは「規則正しく食べ」「運動すること」でしょう。心も同じです。みことばを食べて(聞いて)ばかりいても、心は重たくなるばかりで健康にはなりません。「聞いたら実践する」ことが大切なのです。

また御言葉は「種」にも譬えられています。種が成長するためには「畑の石」を取り除かなければいけません。つまり私達の心にある先入観やプライド、自己中心の石を取り除かなければ、種は深く根を張り、上に成長することができないのです。◆もし自分でその石を取り除けないなら、神様ご自身が「御言葉や試練のハンマー」でそれを砕かれることがあります。また分かっても分からなくても御言葉を聞き続けることによって、耕され続けなさい。信仰によって種を受け入れ、自分の思いを神様に明け渡すことが大切なのです。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、
心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。
みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
また、みことばを実行する人になりなさい。
自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
ヤコブ1章21-22節

土曜日, 12月 09, 2006

神のかたちを壊すもの

【ショートメッセージ】 第23日目「神のかたちを壊すもの」
前回「聖め」とは「神のかたち」の完全な現れであるイエス様に似た者にされることだと学びました。ではもっと具体的に「神のかたちを回復し」「聖められ」たらどうなるのでしょうか?それを知るために「神のかたち」を失う前の人間と堕落した後の人間の姿を比べ、何を回復するべきなのかを知りたいと思います。

なぜ人間は「神のかたち」を失ったのでしょうか?それは人間の心に「罪」が入ってきたからです。この「罪」とはヘビが言ったように「自分が神のようになる」ことを意味しています。つまり「もう神様なんかいらない」「私は私の思うように生きる」といった具合に神に反抗し、自分が神の座につき、他人と被造物を自分の意のままに操ろうとするのです。この「自己中心な生き方」こそ罪の本質です。

その結果エデンの「平和」は一瞬にして崩れ去りました。それまで人は神様と親しく語り、夫婦の間にも隠し事がなく、自然の恵みを享受できたのに、一瞬にして神様の愛を信じられなくなり、かえって恐れて逃げ、家族さえも信用せず、互いに罪をなすりつけ合うようになったのです。そればかりか、被造物までもが、その悪影響に服してしまいました(ロマ8:20)。罪の破壊力は何と恐ろしいことでしょう。

今なおその影響は続いています。多くの人々が、溢れるほどの自由を手に入れながら、なぜか孤独で、空しく、平安がないのです。世界を見渡し、ニュースをみても「神との平和」「人との平和」「自然との平和」どれもが壊れっぱなしなのです。人は憎しみ合い、自然を破壊(汚染)し、神様に背を向けて生きています。私達クリスチャンはどうでしょう?本当に、この現状に心を痛めているでしょうか?

多くの人々は、この状況を何とか自分の力で解決しようとします。そして外に向かって「平和」を叫ぶのです。しかし平和とは「外」からではなく「内」から回復するものです。環境を変えようとしたり、人を変えようとするのではなく、まず自分がその場にひざまずき、自己中心な生き方を悔い改め、十字架の血潮で洗われた白い衣を着せられ、「本当の平安」をいただくことが平和への第一歩なのです。

聖書には「平和を追い求めなさい」とあるように、失われた平和の回復こそ、人生の大切な目的の一つです。そしてそのためには、まず自己中心の古着を捨て、聖い白い衣を着せられ、「神のかたち」を回復していかなければならないのです。◆そして落ち着いた心で、静かに、「神」と「隣人」と「被造物」を愛していくのです。その生き様が、波紋のように、少しずつ周りの人にも伝染していきますように。それが、遠回りのようでいて、平和(シャローム)の近道なのです。

あなたがたは
古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
その人は「造り主のかたち」に似せられてますます新しくされ
真の知識に至るのです。
コロサイ3章9-10節

木曜日, 11月 30, 2006

神のかたちの回復

【ショートメッセージ】 第22日目「神のかたちの回復」
今日から「聖め」についての学びにはいります。それを一言でいえば、罪によって破壊され、歪んでしまった「神のかたち」を回復していくことです。でも、破壊されたものを、どうやって回復させるのでしょう?そもそも神のかたちって何でしょう?そんなことを7回に分けて学んでいきたいと思います。まず始めに…

神のかたちを回復するとは、蛇が言うところの「神のようになれる」という意味ではありません。この世の宗教は、厳しい修行に耐え、功徳を積めば、神のようになれるとか、神秘的な体験が出来るとか、私達の「プライド」と「好奇心」を刺激してきます。しかし、それらは全て、古典的サタンの常套句です!騙されてはいけません。私たちは、力ではなく、愛と謙遜において、似た者とされるのです。

その目指すところは「キリストに似たものとされること」です。なぜなら、この方こそ「見えない神のかたち(コロサイ1:15)」であり「神の本質の完全な現われ(ヘブル1:3)」だからです。イエス様は神の御子でありながら、救いのために、この世に下って来られ、「十字架の死」にまでも従われたのです(ピリピ2:6-8)。この十字架の愛と謙遜こそ、私達が地上の生涯で、全身全霊を傾け、目指すところなのです。

しかし、それは肉的な努力によって、達成されるものではありません。ましてや、修行や、どんな功徳を積むことによってでも無理です。聖書には「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです(第2コリント3:18)」と書いてあるからです。どんなに小さな「聖霊(良心)のささやき」さえも聞き漏らさない、そしてその声に従って行く、その時、私たちは少しずつ「キリストに似た者」とされていくのです。

その上で、神様は、私たちがその御業に協力することを望まれています。神様は私達の内に働いて「神様に従いたいという志し」を与えてくださいます。そしたら、自分の意志を働かせて、古い自分を脱ぎ捨て、心の一新によって自分を変えていかなければいけないのです。この「協力」があって初めて、御霊は自由に働き、私達は「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く」のです。

どうでしょうか?胸のワクワクするような話ではないでしょうか?私達の歩みは、「救われて、お終い」ではなく、そこから始め、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく歩みなのです!◆この「変えられる」という言葉はギリシャ語で「毛虫が蝶に変わるときに使われる言葉」です。蝶になるためには殻を破らなければなりません。私たちも、キリストのようになるためには、破らなければならない殻があるのです。もしそれを、自分で破れないなら、主ご自身がそれを破られます。つまり、この「聖め」の歩みは、痛みをともなう歩みでもあるのです。次回以降そのことを学んでいきましょう。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、
鏡のように主の栄光を反映させながら、
栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
第2コリント3章18節

木曜日, 11月 16, 2006

成熟した交わりを目指して

【ショートメッセージ】
第21日目「成熟した交わりを目指して」

今日は「交わり」についての最後の学びです。イエス様は「幼子のように」と勧められましたが、決して「子供っぽくあれ」とは言われませんでした。聖書には何度も「大人になりなさい」「成長しなさい」と勧められています。では一体、捨てるべき子供っぽさとは何であり、成熟とは何を意味するのでしょうか?

まず「子供っぽい理想主義」を捨てなさい!ある有名な神学者はこう言いました。「目の前の兄弟姉妹よりも、自分の理想を愛す者は、クリスチャン共同体の破壊者となります」と。その例がデオテレペスでしょう。彼はある意味「理想」に燃え、自分の力で教会を刷新してやろうと思っていたかもしれません。そして指導者ばかりか兄弟姉妹をも批判し、交わりを破壊してしまったのです。自分勝手な理想を他人に押し付けるような「子供っぽさ」は、捨てられなければなりません。

成熟するとは第一に安定するということです。聖書には「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく」とあります。つまりデオテレペスのような人が現れたり、異端の教えが教会に入ってきても、簡単になびいたり、慌てたりしないことです。問題のあるときにこそ「集ること」をやめず、しっかり「聖書の教え」に留まりたいものです。

そして第二に、感情的に衝突するのではなく、話し合いで解決できることです。聖書には「愛をもって真理を語り」とあります。友を失いたくないと、言うべきことを言わないでいたら、その友は永遠に失われてしまうかもしれません。愛と勇気を持って真理を語りましょう。まずは一対一で語り合い、それでもだめなら、信頼できる人といっしょに相談に乗りましょう。それでも悔い改めないときには、教会の「秩序」と「聖さ」を守るために、大人としての「決断」が求められます。

第三に、自分ではなく、隣人を喜ばせることです。子供のうちは「してもらうこと」によって満足を得るものです。しかし大人になると「与える喜び」を知るようになります。交わりも同じです。初めは交わりの中で「分かってもらうこと」を第一に求めるでしょう。しかし成長に伴い、今度は人の話しを聞き、兄弟姉妹を喜ばせ、新しい人を「もてなすこと」に喜びを感じるようになってくるのです。

どうでしょうか?私たちは、考え方において、信仰において、そして「交わり」において大人になっているでしょうか?◆イエス様は、ご自分を喜ばせることはなさりませんでした。ただ神の栄光のために、無条件で私たちを受け入れてくださったのです。◆私たちは人間ですから、全く自分が楽しまないことは不可能でしょう。しかし、それを二の次にしてでも、互いに受け入れあい、「もてなす人」になることは大切です。

キリストでさえ、

ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。
こういうわけですから、

キリストが、神の栄光のために、
私たちを受け入れてくださったように、
あなたがたも互いに受け入れなさい。
ローマ15章3,7節(抜粋)

壊れた交わりを回復する

【ショートメッセージ】
第20日目「壊れた交わりを回復する」

前回、私たちは「交わりが壊れるとき」について学びました。それは想像するだけでも、心が痛む、悲しい交わりの姿でした。しかし今回は、一度壊れてしまった交わりが「回復するため」に必要なことは何かを、ともに学びたいと思います。

まず私たちは「平和とは何か」を知らなければなりません。聖書に「平和をつくる者は幸いである」とあるように、平和とは本来一人一人が努力して「築いていくもの」です。決して自然に「平和」が生まれるのでも、何も問題がない状態が「平和」なのでもありません。たとえ問題が起こり、交わりが壊れてしまっても、私たちはその中から「キリストにある真の平和」をつくることができるのです。

そしてその平和は、私達の心から生まれるのです。平和は待っていても、あちらから歩いては来ません。ましてや自分で復讐しようとしたり、相手を自分の思い通りに変えようとするなら、ますます遠ざかって行ってしまうのです。まずは自分が変わる事です。たとえ相手が悪くても、一方的に恨まれているときにでも、「申し訳ありませんでした」と、こちら側から和解を申し出ることが聖書的な方法なのです。その際、相手がそれを受け入れなくても、逆ギレしてはいけません。

しかし「裁かない」ということは、目をつむることではありません。兄弟姉妹の罪や争いを見ても、気付かない振りをするのは、愛ではなく「無関心」です。パウロは教会に対し「あなたがたの中には、争いを仲裁することのできるような賢い者が一人もいないのですか」と嘆いています。そして積極的に「和解の務めを担い」「互いの重荷を負い合い」「他人ことも顧みる」よう、勧めているのです。

でもその際は、言い方が大切です。どんなに正しいことを言っても、「言い方」が適切でなければ、相手の怒りに油を注ぐだけです。箴言には「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす(15:1)」とあります。決して、ミイラ取りがミイラになり、一緒に憤慨したり、問題を更に複雑にしてしまうようなことがありませんように。具体的な方法については、次回お話します。

どうでしょうか?今日は一度壊れてしまった交わりが回復するために、何が必要なのかを学びました。この「和解の務め」を他人任せにしてはいけません。一人びとりが「平和をつくっていく」ことが大切なのです。◆でも一番大切なのは、和解のテクニックではなく、一人びとりが「しっかりとイエス様に繋がっていくこと」です。イエス様こそ私たちの「平和」であり、全ての敵意は十字架によって葬り去られたのです。ただそのことゆえに、私たちは「神の家族」なのです。

キリストこそ私たちの平和であり、
二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわします。
敵意は十字架によって葬り去られました。
あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、

神の家族なのです。
エペソ2章14-19節(抜粋)

木曜日, 10月 19, 2006

交わりが壊れるとき

【ショートメッセージ】 第19日目「交わりが壊れるとき」
教会の「交わり」は、本来、麗しい愛の交わりです。しかし、この交わりは「救われた罪びとの集まり」でもあるので、時に、コリントの教会がそうであったように「私はパウロに」「私はアポロに」「私はキリストに…」といった具合にバラバラになってしまうことがあるのです。それを未然に防ぎ、主にある本物の交わりを築くためにも、今回はあえて「問題」に焦点を当ててみたいと思います。

まず、群れがひとつであるためには、指導者の姿勢が問われている。前回学んだように、交わりの中心はあくまで「イエス様ご自身」です。しかし指導者がその「中心」になってしまったり、働き人によって党派(グループ)が形成されてしまうなら、その交わりは健全さを失っています。指導者の第一の仕事は、人々を神様につなげることであり、自分につなげることではありません!そのことを自戒し、人間的な牧会を退け「まずは自らが模範的なキリストのしもべ」となるべきです。

その上で、群れ全体は、その指導者を認めることが大切です。デオテレペスは自分が属する群れの指導者を軽んじました。そして自分が「かしら」になろうとして、指導者をののしり、交わりを完全に破壊してしまったのです。パウロはこう言っています。「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。(Ⅰテサ5:12)」

しかし時には、親切な言動が分裂を招くこともあります。デオテレペスのようなケースは比較的容易に、誰かが「おかしいなぁ」と気付くでしょう。しかしアブシャロムのようなケースはどうでしょうか?その人は、とても親切に近づいてきます。「何か悩んでいますか」「あなたは正しいですよ」「それは教会がちょっと変ですね」と言葉巧みに心を盗み、知らない間に教会の中に、別なグループを作ってしまうのです。難しいのは、多くの場合、それらが善意でなされていることです。

最後に噂話には気をつけましょう。前回学んだようにクリスチャンの交わりの特徴は「互いの罪や弱さを告白し合うこと」です。でも話した内容が「噂」として教会全体に広まってしまったらどうでしょうか?その人は二重に傷つき、もう二度と話そうとは思いません。噂話とは本人のいないところで、相手に不利な証言をすることです。交わりでは基本的に「他人のことではなく自分のこと」を話しましょう

教会の分裂分派については、学ぶだけでも心が痛みます。そして私たち以上にイエス様ご自身が悲しまれるのです。教会とは「キリストのからだ」ですから、自分勝手な言動によって、引きちぎってはいけないのです。◇そのために、私たちに出来ることがあります。それは一人一人がこのイエス様を愛し、十字架にまで従われたその姿に倣い、兄弟姉妹に仕え、自分の十字架を負っていくことです。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
(マルコ9章34節)

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2章6-8節)

水曜日, 10月 11, 2006

真実な交わり

【ショートメッセージ】 第18日目「真実な交わり」

私たちは「交わり」と聞くと、何をイメージするでしょうか?ある人にとって「交わり」とは、硬いメッセージを聞いた後の、リラックス・タイムのようなものかもしれません。もしそうなら、その人にとっての交わりとは、「軽い日常会話」や「茶菓・食事」もしくは「年代や性別ごとの交流」を意味するでしょう。しかし、聖書が勧めるところの交わりには、もっともっと深い意味があるのです。

教会の「交わり」とこの世のサークルは、根本的に違っています。それは「キリストを中心としている」という点においてです。イエス様はある時こう言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる(マタイ18:20)」と。つまり教会の「交わり」の第一の目的は、自分が楽しむことではなく、中心におられるイエス様の栄光を表すこと(Ⅰコリ10:31)なのです。

そして、この交わりは「聖い交わり」でもあります。世的な交わりには、みだらな冗談や噂話がつきものです。しかし聖書には「みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです(エペ5:4)」とはっきり書かれています。私たちはそのような話題を避けながら「ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与え(4:29)」たいものです。

また、この交わりによって、私たちは「本当の赦し」を体験します。この交わりは、イエス様を中心とした「聖い交わり」です。もし誰かの罪が放置されるなら、イエス様はその中心には居ることはできません。だから罪を犯してしまったら、真っ先に悔い改め、主に祈る必要があります。また、それだけではなく、信頼できる兄姉(当事者)にも、正直に話し、一緒に祈ってもらう必要があるのです。このことはプロテスタント教会において軽視されがちですが、とても大切なことです。クリスチャンの交わりが誰かの赦しを祈るなら、天の父はそれを聞いてくださるのです!

このような「真実な交わり」のためには「正直さ」が必要です。時に、クリスチャンの交わりでさえ「自分がどんなに素晴らしいか」「どんなに伝道しているか」「どんなに聖書のことを知っているか」といった見栄の張り合いになってしまうことがあります。どうしてその様な交わりで自分の本心を打ち明けることができるでしょうか?一人一人が仮面を脱ぎ「正直」になるとき、交わりはグッと深まるのです

正直になることは簡単なようで、とても難しいことです。そのためには、プライドを捨て、謙遜になり、兄弟姉妹に「一緒に祈ってください」とお願いする必要があります。◇イエス様はとても正直でした。ゲッセマネの園で、何と御自分の弟子達にこう言われたのです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」。このように「一緒に祈っていてください」と懇願されたのです。この正直さに見習いたいものです。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、
互いのために祈りなさい。(ヤコブ5章16節)

もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、
天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(マタイ18章19節)

金曜日, 10月 06, 2006

あなたの属するところ

【ショートメッセージ】
第17日目「あなたの属するところ」

個人主義的な傾向の強い現代社会において、「特定の教会」に属することは、窮屈でナンセンスなことのように思えるかもしれません。時には転勤などの事情により、なかなか教会を決められないときもあります。しかしそれでも聖書は、気ままな教会生活を厳しく戒めていますから(Ⅰテモ5:12-14,Ⅱテモ4:3)、出来るだけ早い時期にどこかの教会に落ち着き、そこの指導に従い、何らかの責任を担い、じっくりと信仰を養うのが良いのです。「属する」ことを軽んじてはいけません。

そもそも、なぜ教会はキリストの「からだ」に譬えられるのでしょうか?それは、教会が単なる「組織」や「団体」ではなく「生き物」だからです。どんなに優れた陸上選手の足であっても、体から切り離されたら、数時間で死んでしまうでしょう。それと同じように、私たちも「キリストのからだ」の一器官なのですから、当然、そのいのちの源である「からだ(教会)」に繋がっている必要があるのです。

また同時に、教会は「キリスト」のからだでもあるのです。もしあなたの婚約者が「きみとは結婚したいけど、君の体はいらないよ。そんなの無くたっていいし、他の人の体だっていい」と言ったらどうでしょうか?そこに本当の愛があるでしょうか?同じように「イエス様のことは大好きだけど、教会はどうでもいい。行かなくてもいいし、反対にどこに行っても変わらない」という態度はありえないのです。イエス様は、その目の前の教会のためにも命を捨てられました(エペソ5:25)。

「キリストのからだ」においては、弱い部分が特に大切です。聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ロマ12:15)」とあります。それは私たちが「一つのからだ」に属しているからです。もし指先にとげが刺さされば、からだ全体が痛むでしょう。お腹が痛めば全身で苦しむのです。それと同じように、私たちは特に弱い器官をいたわりながら「喜びと悲しみ」を共有するのです。

最後に、それぞれの役割を果たすことが大切です。もし心臓が「単調な働きにウンザリした」といって止まってしまうならどうなるでしょう?手足のつめが「自分なんかいなくたっていい」といって剥がれ落ちてしまったらどうなるでしょう?私達は、自分でどう思おうと、必ず何らかの「役割」と「賜物」が与えられているのです。一人のヒーローではなく、みんなが自分の賜物を活用し、からだ(教会)に仕えていくとき、「福音」を述べ伝えられ「主の栄光」が現れるのです。

今日の箇所でリック・ウォレンは厳しくこう指摘しています。「多くのクリスチャンは、教会を利用するものの、愛してはいない」と。◇私は全てのクリスチャンは、からだである教会を愛していると信じます。でも積極的に「属し」自分の「役割」を果たしているでしょうか?今日もう一度そのことを、確認したいものです。

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって
満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1章23節)

一つのからだには多くの器官があって、
すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
(ローマ12章4-5節)

あなた方の間に愛があったら

【ショートメッセージ】
第15日目「あなたがたの間に愛があったら」

少々極端な例ですが、人間関係を面倒くさがり、無人島に聖書一冊だけを持って行き毎日お祈りしていたら、それでもその人の信仰は成長するでしょうか?答えはNOです。聖書の言葉は独り善がりなものではなく、人間関係の中で実践され、初めてその意味や、自分自身への発見があるのです。どういうことでしょうか?

以前、神様を愛することと、人を愛することは表裏一体であるとお話しました。この二つがそろわなければ、なかなか健全な信仰は育たないのです。健全な信仰とは、まず神様に出会い、神と人とを本気で愛そうとすることです。すると私たちは次第に自分の愛のなさに気づき、何度も十字架の愛に立ち返ることになるのです。人は「神と人との関係」に留まり、練り聖められることによって、少しずつ成長していくのです。それを面倒くさがっていては、信仰も人格も成長しないのです。

しかし間違った愛は、かえって人を傲慢にします。ある人は、天国で神様の前に出るとき、こう言うかもしれません。「神様、私はあの人にもこの人にもこんなに良いことをしてあげました」「私は○人に伝道して、その結果○人が救われました」と。でもそれにどそれほどの価値があるのでしょう。マザーテレサは言いました。「あなたが何をしたかではなく、どれだけの愛を込めたのかが重要なのです」と。

本当の愛は、自分の足跡を残しません。イエス様は「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と言われました。もしかしたらその小さい人は、心が病んで、感謝することさえ出来ないかもしれません。人の目にはちっぽけな存在なので、誰もあなたのしたことに気付かないかもしれません。でもイエス様は「わたしは知っている。それに満足し天に宝を積みなさい」と言われるのです。

また、本当の愛は、行いをともなうのです。先ほど「何をするかではなく、気持ちだ」と言いましたが、それは「気持だけで良い」と言っているのではありません。Ⅰヨハネに「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」とあるように、本当の愛には「行い」がともなうのです。なすべきことが示されたら、決して先延ばしにせず、実行するのです

この愛を実践する場所として、イエス様は「教会」を用意されました。教会は、神様の花壇のようなもので、そこに愛の花を咲かせるのは、私達一人一人なのです。そこに花が咲くのを見て、人々は「あぁきれいだな、素敵だな」と心を開くでしょう。そうして心が耕され、その人の心にも、福音の種が撒かれるのです。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
(Ⅰコリント13章13節)

もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、
それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、
すべての人が認めるのです。
(ヨハネ13章35節)

神の家族としてつくられた

【ショートメッセージ】
第15日目「神の家族として造られた」

今日から新しいテーマは「神の家族」について学びます。7回の学びの中で、神の家族の一員とされていることがどれほど素晴らしく、この家族を共に建て上げていくことが、どれほどやりがいのあることかを、共に学んでいきたいと思います。その前にまず、私たちに与えられた、現実の家族に目を向けて見ましょう。

家族は、本来、神様が与えてくださった賜物です。進化論を信じ、自然淘汰を唱える人にとって、家族の意味とは、単に「よりよい子孫を残すこと」だけでしょう。でも、神様が人間に家族を与えたのは「ヒトが一人でいるのが良くなかった(創2:18)」からです。人はひとりでは生きていけません。だから神様は、その孤独を癒し、深い愛情と信頼を経験していくために、私達に家族を与えられたのです。

でも同時に、この地上の家族は、一時的で、壊れやすい関係でもあります。この世に「完璧な家族」は存在しません。むしろ完璧を求めるほど、親も子もお互いに疲れ、傷つき、孤独を感じてしまうのです。もしかしたらどこかに、理想的な家族がいるかもしれません。しかしそれさえ永遠ではなく、必ず「別れ」はやってくるのです。愛する誰かが先に召されるのです。避けて通れない、残酷な現実です。

そんな私達に、神様は「永遠の、霊的な家族」を与えてくださいました。その家族には「別れ」がありません。どんなに求めても、裏切られることもありません。唯一完璧なお方、神様ご自身が、私達の親となり、家族となってくださったのです。このお父さんの大きな御手に抱かれるとき、私たちは本当の「癒し(安らぎ)」を経験します。そして孤独ではないように、霊的な兄弟姉妹まで与えられるのです。

私たちがこの神様の子となり、家族の一員になるためには守るべきルールがあります。全ての人が招かれているのです。しかし、土足のまま踏み込むことは許されていないのです。私たちは、三位一体の神様の、聖なる交わりに加えていただくのです。だから私達も、汚れた心を悔い改め、バプテスマを受け(罪を洗われ)、聖い霊(聖霊)に満たされていなければならないのです。そうして初めて、私たちは、神の子として正式に養子縁組され、聖なる家族の一員に認められるのです。

この家族の一員とされることが、どれほど大きなことなのか理解しているでしょうか?子とされたということは、父の、莫大な霊的な遺産(永遠のいのち、聖霊の賜物)の「相続人」とされたということです。◆天のお父様は、その相手を探していましたが、多くの人々の中から特に惨めな私たちを選び、罪の泥沼から引き上げ、イエス様の血潮によって洗い、王子(王女)のしるしである聖霊の白いマントをかぶせて下さったのです。最初から最後まで、全てが一方的な恵みでした。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、
・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・
御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。
(Ⅰヨハネ3章1節)

神を遠くに感じるとき

【ショートメッセージ】
第14日目「神様を遠くに感じるとき」

クリスチャンになりたてのころ、実は自己中心な祈りであったのに、それがかなえられたという経験を持つ人は少なくありません。しかし神様は、私達が、真の礼拝者としての、成長することを願われているので、時に御顔を隠されるのです。

主を遠くに感じる時、まずその原因を探る必要があります。以前にも引用しましたが、神様を遠くに感じるとき、私たちの側の「咎(とが)」が原因である場合があります(イザヤ59:2)。その時は、すぐにでも、その咎を取り除かなければなりません。さもなければ、次第に心はマヒし、ついには神様を求める心まで失われてしまうことがあります。そうなる前に、悔い改め、臨在を取り戻す必要があります。

しかし、いつでも罪が原因であるとも限りません。そもそも何にでも理由を求め、納得しようとするのは人間の側の傲慢ではないでしょうか?主は創造主であり、私たちは被造物です。分からないことがあって当然なのです。大切なのは、たとえ分からなくても、ヨブのごとく「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と心からの礼拝を捧げることなのです。それこそ「究極の礼拝」です。

また礼拝するときは、感覚だけに頼ってはいけません。私たちは弱いので、ヨブの十分の一の苦しみを味わうだけで、心が押しつぶされ、主の臨在を感じられなくなってしまうかもしれません。しかしそうであっても、私たちは壁に向かって礼拝しているわけではなく、そこにも主の臨在は溢れているのです。たとえ自分の気持ちがついていかなくても、そこに主を認め、心からの礼拝を捧げたいものです。

そして最後に大切なのは、神様の愛を信じることです。神様の愛を信じられないとき、私たちは「見捨てられた」と感じます。しかし私たちがそう感じても、神様は、私たちを愛するからこそ、時に試練を用意し、今しばらくの間、御顔を隠されているのです。そしてその先には「平安」と「希望」が待っているのです。それを信じるからこそ、私たちは試練の中でも、賛美を捧げることができるのです。

どうでしょうか?私たちの礼拝は「気分によらない、信仰に基づいた礼拝」となっているでしょうか?主の愛を疑わず、見捨てられたと思うときにも、心からの礼拝を捧げているでしょうか?◆その最高の模範は、イエス様です。イエス様は十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と祈られました。しかしその苦しみの中でも、最後まで父なる神に従い、愛と信仰を全うされたのです。◆あなたが見捨てられたと思うとき、このイエス様を思い出してください。イエス様はあなたの苦しみを全部知っておられます。そして、今も生きて、父なる神様の右に座して、あなたのために祈っておられるのです。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。
なぜ、御前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
私の救い、私の神を。(詩篇42:11)

神に喜ばれる礼拝

【ショートメッセージ】 第13日目「神様に喜ばれ礼拝」
私達は今まで、毎日の生活の中での「個人的な礼拝」と、週に一度みんなで集まる「公同の礼拝」について学んできました。そこで今回は、そもそも「神様は、どんな礼拝を喜ばれるのか?」ということについて、一緒に学びたいと思います。

まず、神様は「私達のすべて」を求めておられます。つまり「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、私たち神である主を愛」することを望まれているのです。決して、いい加減な献身や、曖昧な従順、残り物の時間やお金には、興味をもたれません。どうでしょうか?私達は礼拝において、私達の創造主に、100パーセントの献身と、精一杯の礼拝を捧げているでしょうか?

神様は、「バランスの取れた礼拝」を喜ばれます。私たち心は、大きく「知・情・意」(知性、感情、意志)の三つに分けることが出来るといわれます。イエス様がいわれた「心を尽くし、知性を尽くし…」とは、これら全てを総動員し、バランスの取れた礼拝を捧げなさいという意味があるのです。極端に、知識や意志ばかりを押し付けたり、反対に感情的で秩序を失った礼拝を、主は喜ばれないのです。

「霊とまことによる」の、「霊による礼拝」とは何でしょう?「霊」による礼拝の反対は、「肉」による礼拝です。そして肉による礼拝の特徴は「自分」を満足させることなのです。自分が恵まれたい、自分が祝福されたい、自分が成長したい。そのような思いが悪いのではありませんが、それが第一の目的となり、「偶像」となってしまうとき、それが「礼拝の最大の妨げ」になるのです。私達は、礼拝を捧げるのです。口先ではなく、自分の霊さえも、御前に差し出すことが大切なのです。

また「まことによる礼拝」とは、何でしょうか?「まこと」とは「真理の御言葉(エペソ1:13)」のことです。感情まかせに、バアルの預言者のような礼拝を捧げるのではなく、聖書の御言葉にもとづいて、慎み深く祈り、賛美し、聞くことが大切なのです。その中で、私達の心に感動がこみ上げてくるのなら、それこそ「聖霊からくる、聖なる感動」なのです。神様はそのような礼拝を喜ばれます。

どうでしょうか?私達の礼拝は「神様に喜ばれる礼拝」でしょうか?「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、本気で、私たち神である主を愛」しているでしょうか?◆またバランスの取れた礼拝を捧げるよう心がけているでしょうか?人にはいろいろなタイプがあるのです。自分の好む礼拝スタイルだけを「霊的」であると思い、自分と異なる、知的な人、感情的な人、意思的な人を裁いていないでしょうか?もしそうなら、その思い込みこそが、私達の「偶像」でもあるのです。まずは赦すことからはじめましょう。それが真の礼拝者への道です。

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。(マルコ12章30節)

ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。
霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。(Ⅰコリント14:15)

主の真の友となるために

【ショートメッセージ】
第12日目「主の真の友となるために」

今日どれほど多くの人々が、「親友」と呼べる存在を持っているでしょうか?現代社会では、人間関係までもが「自分にとっての損得(そんとく)」によってはかられ、なかなか真の友情を育みにくい状況にあります。ましてや、目に見えない神様とは、いかにしたら友情を築き、それを深めることができるのでしょうか?

自分から人を遠ざけていては、決して友情を得られません。神様との関係も同じです。聖書に「神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいてくださいます」とありますが、私たちも心を開き、神様に近づかなければ、神様もその人に近づくことは出来ないのです。神様は私たちを愛し、準備し、待っておられます。その愛に気づいて、心に迎え入れることが、神との友情の第一歩なのです。

また次の段階は「与えること」と「共有すること」です。ケチな人は、自ばかりを守り、人のことを考えず、なかなか友情を深められません。でもヨナタンは、ダビデのことを真っ先に考え、彼に良いものを与え、自分のことのように喜び、悲しんだのです。私達はそういった意味で、真の神の友と言えるでしょうか?この方に惜しまず捧げ、御心を喜び、滅びゆく魂のために一緒に胸を痛めているでしょうか。

また友情を深めるためには、率直な対話も不可欠です。聖書には「絶えず祈れ」とありますが、これは目をつむっての祈りのことだけではなく、絶えず祈り心をもって生活することでもあります。感謝や賛美はもちろん、不平不満、疑問、何だっていいのです。全てを打ち明けて、主とともに人生を歩むことが大切なのです。私達の生活には、まだまだ主と切り離された、自己中心な領域がないでしょうか。

神との友情には「従順」が必要ですこれだけは、人間同士の友情と大きく異なっています。人間同士の友情に「上下」はありませんが、神様と私達の間には、創造者と被造物という、明確の違いがあるのです。聖書にはこうあります。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」と。神との友情を育み、親友となるためには、従順が不可欠なのです。

最後に、私達の努力が神様との友情を育てるのではありません。本来、私たちと神様のとの間には、超えることの出来ない仕切り(罪・咎)がありました。でもイエス様が十字架に架かり、命を捨ててくださったので、その仕切りは取り除かれたのです。神殿の幕はその象徴でした。◆その上で、イエス様は全く資格のない私たちを「友」に任命されました。選ばれた私たちに出来ることは、ただ全身全霊でイエス様を愛することだけなのです。この「友情」は一方的に与えられたものです。しかし私たちには、それに相応しくなるよう努力することができます。

ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、
ダビデと契約を結んだ。(Ⅰサムエル18章3節)

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。(マルコ12章30節)

御言葉に聞く

【ショートメッセージ】
第11日目「礼拝にて御言葉を聞く」
よく「よい説教を聞いた」という言葉を聞きます。確かに説教で恵まれるのは、良いことです。でも「よい説教」って何だろうと考えたことがありますか。そもそも説教とは何なのでしょう?なぜ説教を聞かなければいけないのでしょう?説教の聞き方ってあるのでしょうか?そんなことを考えてみたいと思います。

良い説教とは「御言葉に基づいた説教」です。どんなに面白く、感情にグッと迫る話をしても、心に「御言葉」が残らなければ意味がありません。御言葉こそ、私達のいのち、力です。良い説教とは、この「御言葉の深い意味が分かり、心に残る説教」なのです。牧師はそのために召されたのですから、怠けず、自分の悟りを捨て、謙遜に聖書を調べ、よく祈り、最低20時間は準備し講壇に立つのです。

また良い説教とは「十字架の福音に根ざした説教」です。それは一年中、受難週のような「十字架」の聖書箇所から語るという意味ではありません。聖書は、約2千ページに渡り色々なことが書いてあるのですから、説教の内容も色々です。しかし、聖書のどこから語るとしても、その説教は「十字架の愛と恵みに根ざしているべき」なのです。人は愛によって変えられ、少しずつ成長していくのです。

その上で「悔い改めの実を結ぶ」のが良い説教です。聖書には「厳しすぎる」と思えることも書いてあります。しかし説教者は、それを避けて通るのではなく、愛の心から、まっすぐ語る必要があるのです。その時、奇跡が起きます。ペテロの説教の後、人々は「私たちはどうしたらよいのか」と悔い改めへと導かれました。同様に、今日でも聖書がまっすぐ語られるとき、私達の心が揺さぶられるのです。

最後に、良い説教とは「希望を与える説教」です聖書には「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」とあります。今日どれほど多くの人々が、この「道の光」を見失い、闇の中をさまよっていることでしょうか。主の御言葉は、そういった人々に光を投げかけ、人生の目的と、生きる意味を回復させるのです。まずは礼拝に来てもらう、そして聞いてもらう、それが始まりです。

もちろん牧師は完璧ではありません。まずい説教もあるでしょう。時には牧師につまずきを覚えることもあるかもしれません。◆しかしそれでも私たちが、あの少年サムエルのように「お話しください。しもべは聞いております」と謙遜に御前に出続けるなら、御言葉の戸が開き、主ご自身が豊かに語ってくださるのです。◆あなたは毎週、御言葉に期待し、礼拝に集っていますか?主は期待する人に語ってくださいます。そして主は期待する人に、御業を行ってくださるのです。

そのように、信仰は聞くことから始まり、
聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)

そのうちに主が来られ、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。
サムエルは「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。(Ⅰサム3:10)

礼拝の本質

【ショートメッセージ】 第10日目「礼拝の本質」
以前、礼拝の本質とは「自分自身を捧げることです」とお話したことがあります。しかし礼拝には、その他にもいくつかの大切な要素が含まれています。全てを一度に学ぶのは難しいですが、少しずつ大切なことから、学んでいきましょう!!

まず礼拝の本質とは「御前にひれ伏す」ことです。それは日本語の漢字の意味と同じですね。礼拝とは、神様の御前に出て「深く礼をし、心から拝すること」なのです。この礼拝行為は、どの民族にも共通して存在します。しかし多くの人々は、その対象を間違え、偶像や人、権力やお金を拝んでいるのです。この世の中にあって、私たちが、真の神様と出会い、礼拝できるとは、何という幸いでしょうか。

また礼拝とは「砕かれた魂をたずさえて」御前に出ることです。昔の人々は、いけにえをたずさえて、神様の御前に出ました。でも神様が一番喜ばれるいけにえは「砕かれたたましい」なのです。聖書には「神へのいけにえは砕かれた魂。砕かれた悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」とあります。モーセやイザヤも、この砕かれた魂をたずさえ、主を恐れ、謙遜に御前に出ました。

その上で、「心を注ぎ出して祈る」ことも大切です。その祈りの模範はハンナです。彼女は、エリが酔っていると勘違いするほど、熱心に祈っていました。彼女は言いました「私は酔っているのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです」と。またゲッセマネの園でイエス様は、もだえつつ、十字架の恐怖を正直に告白されました。しかしその祈りは「御心のままに…」と結ばれていたのです。

心を注ぎだしてはじめて、私達は自分の問題を「ゆだねる」ことが出来るのです聖書にはこうあります。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです(Ⅰペテ5:7)」。これこそ主の御前に、心砕かれ、ひれ伏し、降参した者のみが感じることの出来る「シャローム(平安)」なのです。この平安を、私達も、礼拝において、経験できるのです。

どうでしょうか?私達の「礼拝」は御心にかなったものでしょうか?その証拠に、約束の「平安」をいただいているでしょうか?◆神様を恐れ、御前にひれ伏しているでしょうか?不遜な態度・服装にはなっていませんか?◆イエス様やハンナのように、心を全て注ぎだしているでしょうか?それとも告白できない何かを隠してはいませんか?◆全てをゆだねているでしょうか?自分で握り締めてはいませんか? ◆イエス様は死に至るまで「まことの礼拝者」でした。私たちも、自分のすべて、霊までも、御手にゆだねるような真の礼拝者となりたいものです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、
霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4章24節)

イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
こう言って、息を引き取られた。(ルカ23章46節)

主の御顔が輝くとき

【ショートメッセージ】
第9日目「主の御顔が私に向かって輝くとき」

前回のところで、私たちは「主を喜ぶことと、主に喜ばれることは、表裏一体である」と学びました。つまり、礼拝において主を喜ぶことと、日常において両親を敬ったり、弱い者を助けたりすることは、同じことなのですよ、と学んだのです。◇そして今回は、その続きです。聖書には、何度も「御顔の光を、照り輝かせてください!」という表現が登場しますが、一体、主は、いつ、どんなときに、私たちを喜び、御顔の光を照り輝かせ、満面の笑みで、微笑みかけてくださるのでしょうか?その事を、ノアの信仰より、ともに教えられたいと思います。

まずノアは「いつも主と共に歩んで」いました。でも「主と共に歩む」とはどういうことなのでしょう?ミカ書にはこうあります。「それはただ公義を行ない誠実を愛しへりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」と。つまり、義を追い求めながらも、誠実かつ謙遜に歩むことなのです。時代は言い訳にはなりません。どんな時代においても、主と共に歩む者を、主は喜んでくださるのです。

またノアは、とことん主に従う「従順な心」を持っていました。その時まで、主が言われるような大雨や洪水を経験した者は一人もいませんでした。そもそも、おびただしい動物を一組ずつどうやって集めるというのでしょう!?でも彼は、たとえ頭では理解できなくても、そのまま信じて従ったのです。しかも彼は主の言われる通り、一寸の狂いもなく箱舟を仕上げました。これが主に喜ばれる信仰なのです。

更にノアは「礼拝(感謝の心)」を大切にしていました。十人のらい病人の話のように、苦しいときに主にすがりつく人はたくさんいます。でも祈りが聞かれ、試練が過ぎ去った時、感謝を捧げるために戻ってくる人がどれだけいるのでしょうか?ノアの素晴らしさは、洪水から救われた時、真っ先に祭壇を築き、主に感謝のいけにえを捧げたことです。私達の祈りは、お願いばかりになっていないでしょうか。

最後に大切なのは、ありふれた日常においても、主に従うことです。さばきが過ぎ去った時、主はまず「生めよ、増えよ、地を満たせ(9:1)」と命じられました。再び、嫁いだり娶ったり、子を育てたりという、ありふれた日常がやってきたのです。信仰とは必ずしもドラマチックなものではありません。ありふれた日常の中で主に従うことも、大切な信仰生活の一部であることを忘れてはいけないのです。

どうでしょうか?あなたは、どんなときにも主を見上げ、いつも主と共に歩んでいるでしょうか?◆祈ったり、聖書を読んだりする中で、主の御声を聞き、その声に従っているでしょうか?◆そして苦しいときだけではなく、その試練が過ぎ去ったときにも、感謝のいけにえをたずさえ、主を礼拝しているでしょうか?◆主が求めておられるのは、私たち人間と、心と心がふれあう交流なのです。そして心が通じあう瞬間、満面の笑顔と共に、御顔の光が輝くのです。^^)/

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。(民数記6章25節)
そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。(エペソ5章10節)

神を喜び、神に喜ばれる

【ショートメッセージ】
第8日目「神様を喜び、神様に喜ばれる」

前回のところで「礼拝こそ、最も人間らしい行為であり、この瞬間、私たちは豊かに主の栄光を表すことが出来るのです」と学びました。その通り、私たち人間だけが、自分の言葉と唇でもって主を褒め称えることが出来、この「愛し、愛される関係」を喜ぶことが出来るのです。今日から7回は礼拝についての学びです。

礼拝こそ、主を喜ぶ最高の瞬間です。私がイエス様の愛に出会い、180度変えられてから、礼拝が「最も退屈な時」から「至福の時」に変わりました。礼拝が終わりに近づくと「あぁ終わらないで欲しい」と心から願うのです。特別な理由はありません。ただ主の臨在の内にいること自体が、幸せで仕方がないのです。この種の喜びは、言われたから感じるものではありません。あくまで自発的なのです。

以前の私は、テレビを見るかのように椅子にふんぞり返り、時計を気にしながら、客観的に礼拝を眺めていました。そして「自分が恵まれるかどうか」をモノサシに、今日の賛美は…今日の説教は…とひたすら裁いていたのです。あなたの態度は、どちらに近いでしょうか?聖書には「あなたがたのからだを、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ霊的な礼拝です(ロマ12:1)」と勧められています。

また主を喜ぶとは、日曜日だけでなく「昼も夜も、毎日」のことでもあります。サンデー・クリスチャンという言葉がありますが、「日曜日だけは立派なクリスチャンで、平日は普通の人と変わらない」人のことを意味します。しかし本来、主を喜ぶとは、日曜日はもちろん、毎日24時間のことです。詩篇にはこうあります。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(1:2)」と。

最後に、神様を喜ぶことは、神様に喜ばれることと、表裏一体です。礼拝や賛美が大好きで、御言葉をよく読み、交わりも伝道も大好き!でも近所や家族に対しては敬愛を示さず、親に対しては恩知らず、そういった者を主は喜ばれるでしょうか?主が求められるのは、生活に根付かない、浮ついた信仰ではありません。見えないところでも謙遜に、隣人と家族に仕える者を、主は喜んでくださるのです。

どうでしょう?私たちの礼拝は、自分が恵まれることよりも、むしろ自分を捧げ、主ご自身を喜ぶことに焦点が絞られているでしょうか?日曜日だけではなく、毎日の生活において主を喜び、御言葉に従って歩んでいるでしょうか?◆また、主を喜ぶと同時に、主に喜ばれる者になることを心がけているでしょうか。たとえ相手が未信者であっても、家族と隣人に仕える者を、主は喜んでくださるのです。

「そういうわけですから、兄弟たち。
私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
(ローマ12章1節)

全ては神の栄光のために!

【ショートメッセージ】
第7日目「すべては神の栄光のために!」
私がまだ小学生だった時、夏のキャンプに出席し「これから皆は、神の栄光のために生きるんだよ」というメッセージを聞き、心のそこから、深く感動したものです。でも大人になると、いろいろ難しく考え過ぎてしまって、なかなかこの事実を喜べないのです。私たちはどうしたら、主の栄光を表せるのでしょうか?

実に単純なことです。被造物は創られた通りに生きるとき、主の栄光を表すことが出来るのです。聖書には「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる(詩19:1)」とあります。例えば鳥であれば、空を飛ぶように創られているのだから、自由に空を飛ぶことによって、神様の創造の御業(栄光)を表すことが出来ます。同様に花であれば、自分らしく咲くことによって、主の栄光を表すことが出来るのです。

では人間はどうでしょう?人間は何のために創られ、人間にしか出来ないことは何でしょうか?それこそ「礼拝」です。人間だけが心から主を喜び、礼拝を捧げることが出来るのです。こればかりは犬にも猫にもサルにも真似は出来ません。礼拝こそ、最も人間らしい行為であり、この、人間が最も人間らしい瞬間、私たちは豊かに主の栄光を表すことが出来るのです。礼拝については、次回以降、詳しく学びます。

また私たちには、きっと、「私」にしか出来ない「何か」があるはずです。聖書には「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」と勧められています。私たちに与えられている賜物は何でしょうか?そして私にしか出来ないことは何でしょうか?それを通して神様に仕えるとき、神様の栄光は、最もまぶしく輝くのです。

しかし気をつけましょう!私たちは、自分自身を輝かせるのではありません!!私たちはただ、月が太陽の光を反射しているように、イエス様の栄光を、反映するだけなのです。つまり私たちは、鏡のような存在です。この私たちが、いつも明るく輝いているためには、汚れてしまう心を、常にイエス様の血潮によって聖めていただく必要があります。そうして初めて栄光は、暗闇に、明るく輝くのです。

どうでしょうか?あなたには、この世という暗闇の中で、主の栄光を、まぶしく輝かせているでしょうか?心から喜んで礼拝を捧げ、自分の賜物を、主のために用いているでしょうか?◆それとも、自分の賜物を用いて、自分を輝かせようとしてしまったり、自分の力で主の栄光を輝かせようとして、疲れてはいないでしょうか?◆私たちは、主の栄光を反映する鏡なのです。主の血潮によって洗われ、キリストの栄光を回りに示していくのです。これは御霊なる神の働きなのです!

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を
反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
(Ⅱコリント3:18)

第6日目「神の視点からこの世を見る」

慣れない地に引っ越したり、はじめてのグループに参加する時など、私たちは何とも言えない「居心地の悪さ」を感じたり「違和感」を覚えたりします。異文化体験とは、遠い外国にあるのではなく、身近なところにもあります。例えば「結婚」もそうです。それまで全然違う所で育ってきた二人が出会い、一緒に住む時、最初は何とも言えない「違和感」や「居心地の悪さ」を感じることもあるのです。でもそんなカルチャーショックを通しても、互いに向き合い、今度は、新しい家庭での価値観が築かれていくのです。

はじめて教会に足を踏み入れた時、どんなことを感じましたか?ある人は、「そこにいる人たちの常識が分からなくて、初めはどう振る舞ったらいいのか分からなかった」と言っていました。「どういう言葉を使ったらいいのか」「どういう表現をしたらいいのか」自分は彼らから見て、おかしな行動をしていないだろうか…、不安に思ったと言うのです。でも教会に通い続け、聖書の話しを聞き、クリスチャンたちとの交わるうちに、段々と「教会に通う人々の常識」が分かって来ます。

べつに信じているわけではなくても、「あぁクリスチャンてこう考えるんだね」「きっとクリスチャンだったらこう思うよね」と、彼らの思考回路が分かってくるのです。そのすべてが、絶対的に正しい、というわけでもないかもしれません。残念ながら「聖書の教え」と「教会の常識」が、完全に一致しているわけではないからです。だから最終的には、自分でも聖書をよく読み、イエス・キリストのことばじっくり味わいながら、「福音」を発見していくことが大切なのです。

そうした中で信仰へと導かれる人もあります。最初は、反発を感じることもあったとしても、理解がすすむ中で、感じていた違和感が、じつは自分の誤解であったり、偏見であったことに気づいたりします。そして、様々なきっかけもあって、意外とすんなり「信じてみよう」という気持ちになるのです。つまり、イエスキリストが、私たちの罪のために十字架にかかり、3日目によみがえってくださったことを受け入れる決心をするのです。こうして私たちは洗礼をうけます。

これが最初に言った「結婚式」にも似ているのかもしれません。結婚式が新たなスタートであるように、洗礼式も「新たな冒険の始まり」です。いよいよ聖書に親しみ、クリスチャンとの交わりも濃くなり、時には教会(キリストのからだ)でぶつかることがあっても、互いに赦し合い、仕え合い、ともに成長して行くのです。そして以前より、神様の心「みこころ」がより分かるようになります。つまり、なにが神様に喜ばれ、悲しまれることかが、前にも増して分かってくるのです。

ここで新たな葛藤が生まれます。今度は、自分が、この世に対して「居心地の悪さ」や「違和感」を感じてしまうのです。今まで当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなり、平気だと思っていたことに罪悪感を覚えたり、全然興味のなかったことが大事になり、生活のリズムも変わって来ます。そういった中で、自分は良くても、周りの人々が「クリスチャンになった自分」を異質に扱ったり、時にはからかったりしはじめます。

仕方がありません。私たちは「新しく生まれ変わった」のですから。もはや、この世の者であって、この世の者でないのです(ヨハネ15:19)。この地上に生きながら、国籍は天に移されています。異文化(違和感)を感じて当然、もし、何も感じていないのなら、むしろその人は本当に生まれ変わっているのでしょうか?言ってみれば、感じるべき「違和感」なのです。大切なのは、違和感を抱えながらも、この世から遠ざかるのではなく、人々を愛し、神様の愛を伝えるために、その中に飛び込んで行くことです。ちょうどイエス様が、天の栄光を捨てて人となり、私たちの間に住んでくださったように。

どうでしょうか?感じるべき違和感を抱きつつも、人々を心から愛しているでしょうか?



 「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかしあなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:19) 

「彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:19-20) 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 

「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)

第5日目「神の視点から人生を見る」

人には様々な能力が与えられています。今日の話しの中に登場するタラントは、「タレント(特別な能力や才能)」の語源ともなっている言葉です(マタイ25章)。話の中の主人は、旅に出る際、しもべたち呼んで、能力に応じて財産を預けられました。一人には5タラント(約3億円)、一人には2タラント(1億2千万円)、一人には1タラント(6千万円)。1人も0タラントの者はいませんでした。誰もが、何かしらのタラント(才能)を有しているのです。周りと比べて「1ラントしかない」と思うかもしれませんが、それでさえ、かなり高額であることが分かります。そして多くの人は、そのタラントを、ただ自分のためだけに使うのです。

よく読むと、そのタラントは、一時的に主人から預かっているにすぎないことがわかります。となると、もうけたお金も、自分ではなく、主人の財産になるのです。聖書にはこうあります。「すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(25:20-21)」預かっているのに、自分のものにしてしまったら、それは私物化です。立派な「泥棒」です。あなたはいつの間にが、預かったタラントを私物化していませんか?

そもそもなぜ、主人はしもべに大切な財産を預けたのでしょうか?本人も言ってのとおり、銀行に預けておくことだって出来たのです(25:27)。その方がリスクも少なく利息だって付いたことでしょう。でも主人はあえて、その財産を、しもべにまかせたかったのです。そうすることで、彼らを信用し、大胆にチャレンジさせ、失敗してよいから、人生を楽しみ、成長して欲しかったのです。それが主人(神様・天のお父さん)の愛だったのです。

そして5タラント預かった者と2タラント預かった者は、みごとその期待にこたえて、さらに5タラントと2タラントをもうけました。主人もたいそう喜び、こう言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(20:21,23)」そうなのです。主人の一番の喜びは、自分の財産が増えることではなく、「主人の喜びをともに喜んでいる」しもべの姿を見ることだったのです。財産を任せたのは、それを知るためのテストでもありました。

しかし、1タラント預かったしもべは、そんな主人の心を全く理解していませんでした。そればかりかこう言うのです。「ご主人さま。あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました(24)」。それを聞いた主人はどんなに悲しかったことでしょう。このしもべは「自分のなまけ心(26)」を正当化するために、主人を冷酷非道な「ひどい方」に仕立て上げ「だから自分は1タラントを埋めたんだ」と主張したのです。

また、彼はこう考えたのかもしれません。「どうせ儲けたとしても、主人のものなんだ。頑張るだけ損だ」「だいたい、なんで俺が1タラントなんだ?やってられるか!」。彼はそうやって主人の喜びを、自分の喜びにすることが出来なかったのです。彼は、自分だけを愛し、主人を愛していませんでした。愛する人が喜ぶ時、私たちは自分も嬉しくなります。

あなたには、どんなタラントが預けられているでしょうか?何もない人はいません、誰でも必ず、何かしらの賜物が預けられています。あなたは、それを何のために用いていますか?自分のためだけでしょうか?しかしそれは、本来、神と人とを喜ばせるために、預けられているものなのです。自分のためだけに用いても、地面に埋めておいてもいけません。


『よくやった。良い忠実なしもべだ。
 あなたは、わずかな物に忠実だったから、
 私はあなたにたくさんの物を任せよう。
 主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイ25:21



第4日目「永遠に生きる存在として」

今日のテーマは「永遠」です。私たちは普段、なかなかこの問題と向き合おうとしません。忙しいせいもあるでしょう。毎日生きていくのがやっとで、先のこと、特に死んだ後のことなど考える暇がないのです。子育て中のお母さんは尚更でしょう。小さな子どもを育てるのにやっとで、そんな先のことなどとても考えられません。でも誰にでも、死という問題はやってきます。あるのは、その時になって慌てるか、今から備えておくかの違いです。

聖書には「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい」とあります。その理由は、「そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるから」です(伝道者の書7章2節)。身近な人の死に直面し、私たちはハッと我に帰るように、目の前の生活以外のこと、人は死んだらどうなるのか、つまり永遠について考え始めるのです。◆中世の修道士たちは「メメントモリ」(死を覚えよ・ラテン語)と挨拶をしました。それによって、いつも「死」と向き合うためです。「死」を恐れるあまり、人生を無駄にすることではありません。むしろ自分の人生(時間)には限りがあることを覚えて、「今を精一杯、有意義に生きるため」なのです。あなたは、この「死」の問題と向き合っていますか?

このことを忘れてしまうとき、私たちの人生はズレはじめます。聖書に出てくる金持ちの男は心の中でこう考えました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12章19節)こうして彼は、自分の人生を究極に満たしてくれる神の存在と、自分の富を他者と分かち合うことを、忘れてしまったのです。

また、主人から一タラントを預かったしもべは「出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠し」(マタイ25章18節)てしまいました。彼の人生にとって大切なことは、無難に生きて、無難に人生を閉じることでした。私たちは、どのように生きたかについて、「いのち」を与えられた神様に責任を問われます。ただ単に間違い(罪)を犯さなければいいのではありません。それでは、何もせず、「怠け者」と叱責されたしもべと同じです。大切なのは、与えられている「時間」と「賜物」を活かして、神と人とを愛することなのです。

この地上の生涯がすべてではありません。聖書にはこうあります「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です(Ⅱコリント5章1節)」。そこに入るためには、どうしたら良いのでしょう?自分の罪を認め、イエス・キリストがその罪のために十字架にかかり、3日目によみがえられたことを信じることによってです。

それと同時に、自分の人生(時間)や賜物を、喜んで他者と分かち合うことも大切です。ギリシャ語で「罪」のことを「ハマルティア」と言いますが、もともとの意味は「的外れ」です。あの金持ちのように、自分のためだけに生き、蓄える人生は、的外れなのです。しかし、喜んで神の人とのために自分を用い、活用する、生き方は「天に宝を積む」生き方です(マタイ6章20節)。それこそ、聖書が私たちに教えている、的を射た、神様に喜ばれる人生なのです。

人生は死んでお終いではありません。むしろ、それから永遠が始まるのです。そして私たちは、生きている間に、その永遠に対して、備えることが出来るのです。



人間には、
一度死ぬことと
死後にさばきを受けることが
定まっている。
ヘブル人への手紙9章27節

第3日目「人生を動かすもの」

今日のテーマは「人生を動かすもの」ですが、正確には「人生を導くもの」と言ったほうが良いのかもしれません。私たちは自分で決断し、人生を歩んでいるようでも、実は様々な力によって、人生を導かれているのではないでしょうか?

今日のテーマは「人生を動かすもの」ですが、正確には「人生を導くもの」と言ったほうが良いのかもしれません。私たちは自分で決断し、人生を歩んでいるように思えても、実は、様々な力によって、人生を導かれているのではないでしょうか?その一つ一つを、見てみましょう。

ある人は「肉の欲」によって人生を導かれています。ロトがまさしくそうでした。彼は遠くにある神様の祝福よりも「目先の利益」を求め、損得勘定によって生きていたのです。別な言い方をすれば、目に見えるものしか信頼できませんでした。また、今日の聖書の箇所にはありませんが、別な人々は「うらみ」や「罪責感」という、負の感情によって、人生を導かれています。過去に起こった事や、人から受けた悪をなかなか許せず、いつも思い出し、後ろばかりを振り返って、時には「その負の感情」を爆発させたりして、自分の身をすり減らし、周りも困らせてしまうのです。

またある人は「不安」によって人生を導かれています。とにかく現状維持が大切で、新しいことには挑戦しようとせず、決まりきった毎日を続けています。神様はその牢獄から、あなたを連れ出したいと願っておられるかもしれません。またある人は「人の目」を気にして生きています。「これをしたらどう思われるか?」「どう見られるか?」ばかりを気にして、したくもないことを、我慢して続けているのです。自分が、そういう人生を選びとっているにもかかわらず、本当の満足はありません。結局は「仕方がなく」そう生きているにすぎないからです。

そういうことを続けていると、いったいどうなってしまうのでしょう?まずは、段々と「無気力」となり「喜び」を失ってしまいます。そして目に見えないところでは、徐々に、神様が与えようとしておられる「本当の祝福」から遠ざかってしまうのです。神様は、私たちの人生に、良いことを計画しておられます。聖書にはこうあります。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」しかし私達の選択の仕方が、その祝福を遠ざけてしまっているのです。何と残念で、もったいないことでしょうか。

大切なのは、まず「目標つまりゴールを設定すること」です。パウロは「神の栄冠を得るために一心に走る」と言いました。私たちに与えられた時間は限られています。時間を有効に使うためには「何に情熱を傾けるべきで」「何に傾けるべきでないか」を知らなければなりません。あなたには、一心に目指し続ける、確かな人生のゴール(優先順位)があるでしょうか?また同時に、その人生という旅を「誰とともに歩むか」ということも大切です。知人や友人、伴侶はもちろん、もっと大切なのは、私たちを愛し、最高の友となってくださるお方、イエス・キリストとともに歩むことなのです。このお方と歩む時、荒れ地も花園へと、変えられるのです。

賢い人生の選択は大切です。しなくても良い苦労というものがあります。でも人生とは必ずしも「二者択一」とは限りません。たとえ「間違った道」を選んでしまったとしても、あなたが、そこでとどまり、それまでの人生を振り返り、本当に悔い改め、「これからは神様と一緒に、あなたを第一として歩んで行きます」と決断をするなら、そこから新しい人生が始まるのです。



神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて
益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ8章28節

第2日目「全ては偶然ではない」

今日のテーマは「すべては偶然ではない」です。私たちは「何のために生きているのか」という問について学んでいますが、それを知るためには、まず私たちが「何のために生まれてきたのか」を知らなければなりません。私たちが生まれてきたことには何か意味があるのでしょうか?それとも単なる偶然なのでしょうか?

多くの人は、こういった人生の意味を説明するのに「神様」を持ちだすことを嫌います。そして、神様を認めず、全てを「科学的」に説明しようとするのです。例えば、宇宙は「偶然(ビッグバン)によって宇宙が誕生し、偶然が重なりあって、原子と分子が生まれ、有機物が生まれ、有機物がアメーバになり、アメーバが生物になり、生物が進化し人間が生まれた」と。科学を否定するわけではありませんが、もし科学で説明できることが全てで、その背後には何の目的も計画もなく、愛とか意志を有して私たちを創造した人格的な存在もないとするならば、何と虚しいのでしょう。私たちとは、単なる偶然と膨大な時間が折り重なって出来た、「偶然の産物」なのでしょうか?

まことしやかな「科学」に騙されてはいけません。科学は色々なメカニズムやプロセスは教えてくれますが、万能ではありません。人生の意味を説明するには、目に見えない人格的な存在が必要です。そのお方こそ神様です。私たちは「神様の目的と、ご計画に従って生まれてきた」のです。私たちは、たまたま生まれてきたのではありません。神様と呼ばれるお方が、愛をもって私たちを母の胎に形づくり、目的と計画を持って、この時代とこの国に送り出して下さったのです。これを、偶然に対する必然、すなわち「神の摂理」と呼びます。親の計画や願いによるのでもありません。聖書にこうあります。「神様が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた。」

また神様の目的は、私達の人生全体に及んでいます。人生には色々な事が起こります。悲しい事も起こります。また、神様のご計画と愛によって、すべての人が生まれてくるなら、どうして…と思えることもあるでしょう。ある人々は、それらが偶然起こったかのように、驚き、悲しみ、絶望にくれます。でもクリスチャンは、すべての出来事の背後に、神様のご計画と愛の配慮を感じ取ります。それは決して簡単なことではありませんし、最後の最後まで、やっぱり理解できないこともあります。でも、私たちの理解を超えて、それでも私たちのことを愛し、ご計画を持っていてくださる神様を信じるのです。それが本当の意味で、神様を「信じる」ということなのです。

そして神様は、私たちの人生に責任を持ってくださいます。聖書にはこうあります。「あなたがたが白髪になってもわたしは背負う。背負って救い出す」。「ゆりかごから墓場まで」どころか「生まれる前から天国まで」神様は私達を愛し、導いてくださいます。どうでしょうか?最後の一瞬まで、この神様の愛を信じ、人生の意味を求めて生きるでしょうか?それとも、偶然に生まれ、何の目的も持たないまま、数十年の人生を終えて行くでしょうか?どうかこれを読んでいる全ての人が、意味のある人生を、最後の最後まであきらめず、希望を持って生きることが出来ますように。

あなたの、この地上の生涯には、神様の愛と、ご計画が、あふれている。



あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、
わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
(イザヤ46章3-4節)