水曜日, 1月 24, 2007

誘惑によって造りかえられる

【ショートメッセージ】
第26日目「誘惑によって造り変えられる①」

今回のテーマは「誘惑」です。誘惑は前回もお話した通り、試練とは違い、私たちを神様から引き離そうとする、肉やサタンからの攻撃です。しかし、この誘惑でさえ、私たちがどのように対処するかによっては、神の栄光のために用いられるのです。2回にわたり「誘惑によって造りかえられる」と題し学びましょう。

まず確認しておかなければならないのは、「欲」そのものは罪ではないということです。代表的なものに「性欲」「金銭欲」「名誉欲」などがありますが、それらでさえも正当な方法、つまり結婚とか地道な労働によって満たされるのなら「良いもの」なのです。ただ、それ自体が神様よりも大切な偶像になってしまったり(コロ3:5)、聖書の基準から逸脱した手段によって満たそうとするときに罪となるのです。

たとえ罪ではなくても、放っておくと「罪」を生みます。イエス様は「情欲を抱いて女を見る者は」と言われました。この「情欲」と「欲」とは違います。異性を見て「素敵だなぁ」と思うことはごく自然なことで、罪悪感を覚える必要はありません。しかしその相手によって自分の欲を満たしたいと妄想することは「情欲」であり、実行することにより「罪」となるのです。ダビデは妄想し、行動に移しました。エバもおいしそうな木の実を凝視し、味を妄想し、誘惑に負けてしまったのです。

小さな誘惑であれば自分の意志でも何とかなるかもしれません。でもそうできないときもあるのです。一度、自分の心の大部分を占めてしまったものは、なかなか脳裏から離れず「すがるな、さわるな」と禁じられれば禁じられるほど、衝動は強くなってしまうのです。異性、金、権力の他にも、酒、暴飲暴食、衝動買い、借金、噂話、インターネット、自己憐憫など中毒性のあるものは何でも同じことです。自力で闘おうとすればするほど、コントロールできない、惨めな自分を発見するのです。

もっと深刻なのは、心のどこかで、そんな自分を許してしまうときです。私達は驚くほど自分には寛容です。「止めたい」と思っていても、心のどこかでは「実はこのままでもいいや」「もうちょっと楽しみたい」「まだ大丈夫だろう」と言い訳し、なかなかその誘惑から離れようとしないのです。クリスチャンなら「イエス様はきっと赦してくれる」と、最初から高をくくってしまうこともあるのです。

またイエス様も、そんな人を放っておかれることがあります。そして「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み」始めるのです。時には、健康を損なったり、職を失ったり、家庭が壊れてしまうときもあります。でもそこでようやく私たちは自分の愚かさに気づき、真剣に「変わりたい」と願い始めるのです。それは苦しい体験ですが、悔い改めによって、信仰の「人生第2ラウンド」が始まるのです。

ルターは、こう言いました。「誘惑を受けたことが、私にとっての神学教育でした」と。誰でも誘惑されます。口にはしなくても、同じようなことを経験しているのです。しかしそこから何を学ぶかは、人によって違います。主にある人は、誘惑にあっても、そこから金よりも貴い「教訓」と「知恵」を学び、栄光方栄光へ、勝利の人生を歩むことができるのです。詳しくは次回に続く・・・。

訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。 箴言8書33節