火曜日, 3月 13, 2007

自分の経験をもって主に仕える

【ショートメッセージ】
第31日目「自分の経験をもって主に仕える」


「神と人とに仕えて生きる」と題し学んでいますが、今日は私達の「経験」が、どのように奉仕に生かされるか、をともに学びたいと思います。全ての人の「指紋」が違っているように、私たちが人生に残してきた「あしあと」も違っています。日本では、人と違っていることは恥ずかしいことだと思われがちですが、神様は、あなたの経験を、神と人とのために役立てたいと願っておられるのです。

聖書の原則は「苦しみを通った人が、同じ苦しみの中にある人を助けられる」です。イエス様はペテロにおっしゃられました。「もしあなたが立ち直ったら(同じ弱さを持っている)兄弟たちを力づけてやりなさい」と。そしてその通りペテロは、初代教会において、愛と哀れみをもって、信仰的に若い、多くの兄弟姉妹を励ましたのです。イエス様も同じです。イエス様は地上において、あらゆる苦しみを経験されたので、あらゆる苦しみの中にいる人々を救うことが出来になるのです。

ただし誰も一人では「完璧な苦労」を経験することは出来ないのです。牧師は聖書を専門的に学び、全体的な視点から、福音を語ることが出来ます。しかしそれだけでは物足りないと感じる人がいても仕方がないのです。だからこそ信徒の「証し」が大切なのです。障害をもったお母さんの気持ちは、同じ立場のお母さんが一番よく分かるでしょう。離婚を経験された家庭の苦労は、同じ立場の方が一番よく分かるのです。そうした交わりの中で、信仰に深い理解が与えられていくのです。

ただし経験には「落とし穴」もあります。聖書には「知識は人を高ぶらせる」とありますが「経験によっても」人は高ぶってしまうのです。「私はこんな経験をしたのに、あなた方はしていないでしょう。だから分かるはずがないのです」と、無意識に裁いてしまうのです。また、似たような経験をしていると、「あなたも私と同じ気持に違いない」と勝手に決め付け、かえって相手を傷つけてしまうことだってあるのです。自分の経験を誇ったり、安易に頼ったりしてはいけないのです。

私達は、パウロの「ちりあくた」の姿勢に学びたいものです。パウロほど色々な経験をした人はいません。救われる前に受けた学問教育が、思いがけず福音宣教に役立ちました。それでも彼は、その家柄や教養を「ちりあくた」だと呼んでいます。また伝道のために世界中を旅し、あらゆる困難と迫害を経験しましたが、その苦労話でさえ「武勇伝」とはせず、自分の「弱さと十字架のみ」を誇りました。そのような謙遜さがあったからこそ、彼の「経験」は、神様に用いられたのです。

ステンドグラスを思い出してください。色々な「かたち」と「色」のガラス片があります。どれか一つが欠けても、目立ちすぎても「絵」になりません。全てが調和するとき、美しい「作品」となるのです。◆経験も似ています。目立つ経験も、目立たない経験もあるでしょう。しかし皆が一つ心となり、十字架のもとに自分の経験を持ち寄り、「主よ用いてください」と捧げるなら、そこに「イエス様のからだ」が浮かび上がってくるのです。それこそ神の作品「教会」なのです。

しかし私には、
私たちの主イエス・キリストの十字架以外に
誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、
私も世界に対して十字架につけられたのです。
(ガラテヤ6章14節)