金曜日, 10月 06, 2006

第4日目「永遠に生きる存在として」

今日のテーマは「永遠」です。私たちは普段、なかなかこの問題と向き合おうとしません。忙しいせいもあるでしょう。毎日生きていくのがやっとで、先のこと、特に死んだ後のことなど考える暇がないのです。子育て中のお母さんは尚更でしょう。小さな子どもを育てるのにやっとで、そんな先のことなどとても考えられません。でも誰にでも、死という問題はやってきます。あるのは、その時になって慌てるか、今から備えておくかの違いです。

聖書には「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい」とあります。その理由は、「そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるから」です(伝道者の書7章2節)。身近な人の死に直面し、私たちはハッと我に帰るように、目の前の生活以外のこと、人は死んだらどうなるのか、つまり永遠について考え始めるのです。◆中世の修道士たちは「メメントモリ」(死を覚えよ・ラテン語)と挨拶をしました。それによって、いつも「死」と向き合うためです。「死」を恐れるあまり、人生を無駄にすることではありません。むしろ自分の人生(時間)には限りがあることを覚えて、「今を精一杯、有意義に生きるため」なのです。あなたは、この「死」の問題と向き合っていますか?

このことを忘れてしまうとき、私たちの人生はズレはじめます。聖書に出てくる金持ちの男は心の中でこう考えました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12章19節)こうして彼は、自分の人生を究極に満たしてくれる神の存在と、自分の富を他者と分かち合うことを、忘れてしまったのです。

また、主人から一タラントを預かったしもべは「出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠し」(マタイ25章18節)てしまいました。彼の人生にとって大切なことは、無難に生きて、無難に人生を閉じることでした。私たちは、どのように生きたかについて、「いのち」を与えられた神様に責任を問われます。ただ単に間違い(罪)を犯さなければいいのではありません。それでは、何もせず、「怠け者」と叱責されたしもべと同じです。大切なのは、与えられている「時間」と「賜物」を活かして、神と人とを愛することなのです。

この地上の生涯がすべてではありません。聖書にはこうあります「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です(Ⅱコリント5章1節)」。そこに入るためには、どうしたら良いのでしょう?自分の罪を認め、イエス・キリストがその罪のために十字架にかかり、3日目によみがえられたことを信じることによってです。

それと同時に、自分の人生(時間)や賜物を、喜んで他者と分かち合うことも大切です。ギリシャ語で「罪」のことを「ハマルティア」と言いますが、もともとの意味は「的外れ」です。あの金持ちのように、自分のためだけに生き、蓄える人生は、的外れなのです。しかし、喜んで神の人とのために自分を用い、活用する、生き方は「天に宝を積む」生き方です(マタイ6章20節)。それこそ、聖書が私たちに教えている、的を射た、神様に喜ばれる人生なのです。

人生は死んでお終いではありません。むしろ、それから永遠が始まるのです。そして私たちは、生きている間に、その永遠に対して、備えることが出来るのです。



人間には、
一度死ぬことと
死後にさばきを受けることが
定まっている。
ヘブル人への手紙9章27節