金曜日, 10月 06, 2006

あなた方の間に愛があったら

【ショートメッセージ】
第15日目「あなたがたの間に愛があったら」

少々極端な例ですが、人間関係を面倒くさがり、無人島に聖書一冊だけを持って行き毎日お祈りしていたら、それでもその人の信仰は成長するでしょうか?答えはNOです。聖書の言葉は独り善がりなものではなく、人間関係の中で実践され、初めてその意味や、自分自身への発見があるのです。どういうことでしょうか?

以前、神様を愛することと、人を愛することは表裏一体であるとお話しました。この二つがそろわなければ、なかなか健全な信仰は育たないのです。健全な信仰とは、まず神様に出会い、神と人とを本気で愛そうとすることです。すると私たちは次第に自分の愛のなさに気づき、何度も十字架の愛に立ち返ることになるのです。人は「神と人との関係」に留まり、練り聖められることによって、少しずつ成長していくのです。それを面倒くさがっていては、信仰も人格も成長しないのです。

しかし間違った愛は、かえって人を傲慢にします。ある人は、天国で神様の前に出るとき、こう言うかもしれません。「神様、私はあの人にもこの人にもこんなに良いことをしてあげました」「私は○人に伝道して、その結果○人が救われました」と。でもそれにどそれほどの価値があるのでしょう。マザーテレサは言いました。「あなたが何をしたかではなく、どれだけの愛を込めたのかが重要なのです」と。

本当の愛は、自分の足跡を残しません。イエス様は「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と言われました。もしかしたらその小さい人は、心が病んで、感謝することさえ出来ないかもしれません。人の目にはちっぽけな存在なので、誰もあなたのしたことに気付かないかもしれません。でもイエス様は「わたしは知っている。それに満足し天に宝を積みなさい」と言われるのです。

また、本当の愛は、行いをともなうのです。先ほど「何をするかではなく、気持ちだ」と言いましたが、それは「気持だけで良い」と言っているのではありません。Ⅰヨハネに「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」とあるように、本当の愛には「行い」がともなうのです。なすべきことが示されたら、決して先延ばしにせず、実行するのです

この愛を実践する場所として、イエス様は「教会」を用意されました。教会は、神様の花壇のようなもので、そこに愛の花を咲かせるのは、私達一人一人なのです。そこに花が咲くのを見て、人々は「あぁきれいだな、素敵だな」と心を開くでしょう。そうして心が耕され、その人の心にも、福音の種が撒かれるのです。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
(Ⅰコリント13章13節)

もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、
それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、
すべての人が認めるのです。
(ヨハネ13章35節)