木曜日, 10月 19, 2006

交わりが壊れるとき

【ショートメッセージ】 第19日目「交わりが壊れるとき」
教会の「交わり」は、本来、麗しい愛の交わりです。しかし、この交わりは「救われた罪びとの集まり」でもあるので、時に、コリントの教会がそうであったように「私はパウロに」「私はアポロに」「私はキリストに…」といった具合にバラバラになってしまうことがあるのです。それを未然に防ぎ、主にある本物の交わりを築くためにも、今回はあえて「問題」に焦点を当ててみたいと思います。

まず、群れがひとつであるためには、指導者の姿勢が問われている。前回学んだように、交わりの中心はあくまで「イエス様ご自身」です。しかし指導者がその「中心」になってしまったり、働き人によって党派(グループ)が形成されてしまうなら、その交わりは健全さを失っています。指導者の第一の仕事は、人々を神様につなげることであり、自分につなげることではありません!そのことを自戒し、人間的な牧会を退け「まずは自らが模範的なキリストのしもべ」となるべきです。

その上で、群れ全体は、その指導者を認めることが大切です。デオテレペスは自分が属する群れの指導者を軽んじました。そして自分が「かしら」になろうとして、指導者をののしり、交わりを完全に破壊してしまったのです。パウロはこう言っています。「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。(Ⅰテサ5:12)」

しかし時には、親切な言動が分裂を招くこともあります。デオテレペスのようなケースは比較的容易に、誰かが「おかしいなぁ」と気付くでしょう。しかしアブシャロムのようなケースはどうでしょうか?その人は、とても親切に近づいてきます。「何か悩んでいますか」「あなたは正しいですよ」「それは教会がちょっと変ですね」と言葉巧みに心を盗み、知らない間に教会の中に、別なグループを作ってしまうのです。難しいのは、多くの場合、それらが善意でなされていることです。

最後に噂話には気をつけましょう。前回学んだようにクリスチャンの交わりの特徴は「互いの罪や弱さを告白し合うこと」です。でも話した内容が「噂」として教会全体に広まってしまったらどうでしょうか?その人は二重に傷つき、もう二度と話そうとは思いません。噂話とは本人のいないところで、相手に不利な証言をすることです。交わりでは基本的に「他人のことではなく自分のこと」を話しましょう

教会の分裂分派については、学ぶだけでも心が痛みます。そして私たち以上にイエス様ご自身が悲しまれるのです。教会とは「キリストのからだ」ですから、自分勝手な言動によって、引きちぎってはいけないのです。◇そのために、私たちに出来ることがあります。それは一人一人がこのイエス様を愛し、十字架にまで従われたその姿に倣い、兄弟姉妹に仕え、自分の十字架を負っていくことです。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
(マルコ9章34節)

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2章6-8節)

水曜日, 10月 11, 2006

真実な交わり

【ショートメッセージ】 第18日目「真実な交わり」

私たちは「交わり」と聞くと、何をイメージするでしょうか?ある人にとって「交わり」とは、硬いメッセージを聞いた後の、リラックス・タイムのようなものかもしれません。もしそうなら、その人にとっての交わりとは、「軽い日常会話」や「茶菓・食事」もしくは「年代や性別ごとの交流」を意味するでしょう。しかし、聖書が勧めるところの交わりには、もっともっと深い意味があるのです。

教会の「交わり」とこの世のサークルは、根本的に違っています。それは「キリストを中心としている」という点においてです。イエス様はある時こう言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる(マタイ18:20)」と。つまり教会の「交わり」の第一の目的は、自分が楽しむことではなく、中心におられるイエス様の栄光を表すこと(Ⅰコリ10:31)なのです。

そして、この交わりは「聖い交わり」でもあります。世的な交わりには、みだらな冗談や噂話がつきものです。しかし聖書には「みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです(エペ5:4)」とはっきり書かれています。私たちはそのような話題を避けながら「ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与え(4:29)」たいものです。

また、この交わりによって、私たちは「本当の赦し」を体験します。この交わりは、イエス様を中心とした「聖い交わり」です。もし誰かの罪が放置されるなら、イエス様はその中心には居ることはできません。だから罪を犯してしまったら、真っ先に悔い改め、主に祈る必要があります。また、それだけではなく、信頼できる兄姉(当事者)にも、正直に話し、一緒に祈ってもらう必要があるのです。このことはプロテスタント教会において軽視されがちですが、とても大切なことです。クリスチャンの交わりが誰かの赦しを祈るなら、天の父はそれを聞いてくださるのです!

このような「真実な交わり」のためには「正直さ」が必要です。時に、クリスチャンの交わりでさえ「自分がどんなに素晴らしいか」「どんなに伝道しているか」「どんなに聖書のことを知っているか」といった見栄の張り合いになってしまうことがあります。どうしてその様な交わりで自分の本心を打ち明けることができるでしょうか?一人一人が仮面を脱ぎ「正直」になるとき、交わりはグッと深まるのです

正直になることは簡単なようで、とても難しいことです。そのためには、プライドを捨て、謙遜になり、兄弟姉妹に「一緒に祈ってください」とお願いする必要があります。◇イエス様はとても正直でした。ゲッセマネの園で、何と御自分の弟子達にこう言われたのです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」。このように「一緒に祈っていてください」と懇願されたのです。この正直さに見習いたいものです。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、
互いのために祈りなさい。(ヤコブ5章16節)

もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、
天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(マタイ18章19節)

金曜日, 10月 06, 2006

あなたの属するところ

【ショートメッセージ】
第17日目「あなたの属するところ」

個人主義的な傾向の強い現代社会において、「特定の教会」に属することは、窮屈でナンセンスなことのように思えるかもしれません。時には転勤などの事情により、なかなか教会を決められないときもあります。しかしそれでも聖書は、気ままな教会生活を厳しく戒めていますから(Ⅰテモ5:12-14,Ⅱテモ4:3)、出来るだけ早い時期にどこかの教会に落ち着き、そこの指導に従い、何らかの責任を担い、じっくりと信仰を養うのが良いのです。「属する」ことを軽んじてはいけません。

そもそも、なぜ教会はキリストの「からだ」に譬えられるのでしょうか?それは、教会が単なる「組織」や「団体」ではなく「生き物」だからです。どんなに優れた陸上選手の足であっても、体から切り離されたら、数時間で死んでしまうでしょう。それと同じように、私たちも「キリストのからだ」の一器官なのですから、当然、そのいのちの源である「からだ(教会)」に繋がっている必要があるのです。

また同時に、教会は「キリスト」のからだでもあるのです。もしあなたの婚約者が「きみとは結婚したいけど、君の体はいらないよ。そんなの無くたっていいし、他の人の体だっていい」と言ったらどうでしょうか?そこに本当の愛があるでしょうか?同じように「イエス様のことは大好きだけど、教会はどうでもいい。行かなくてもいいし、反対にどこに行っても変わらない」という態度はありえないのです。イエス様は、その目の前の教会のためにも命を捨てられました(エペソ5:25)。

「キリストのからだ」においては、弱い部分が特に大切です。聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ロマ12:15)」とあります。それは私たちが「一つのからだ」に属しているからです。もし指先にとげが刺さされば、からだ全体が痛むでしょう。お腹が痛めば全身で苦しむのです。それと同じように、私たちは特に弱い器官をいたわりながら「喜びと悲しみ」を共有するのです。

最後に、それぞれの役割を果たすことが大切です。もし心臓が「単調な働きにウンザリした」といって止まってしまうならどうなるでしょう?手足のつめが「自分なんかいなくたっていい」といって剥がれ落ちてしまったらどうなるでしょう?私達は、自分でどう思おうと、必ず何らかの「役割」と「賜物」が与えられているのです。一人のヒーローではなく、みんなが自分の賜物を活用し、からだ(教会)に仕えていくとき、「福音」を述べ伝えられ「主の栄光」が現れるのです。

今日の箇所でリック・ウォレンは厳しくこう指摘しています。「多くのクリスチャンは、教会を利用するものの、愛してはいない」と。◇私は全てのクリスチャンは、からだである教会を愛していると信じます。でも積極的に「属し」自分の「役割」を果たしているでしょうか?今日もう一度そのことを、確認したいものです。

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって
満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1章23節)

一つのからだには多くの器官があって、
すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
(ローマ12章4-5節)

あなた方の間に愛があったら

【ショートメッセージ】
第15日目「あなたがたの間に愛があったら」

少々極端な例ですが、人間関係を面倒くさがり、無人島に聖書一冊だけを持って行き毎日お祈りしていたら、それでもその人の信仰は成長するでしょうか?答えはNOです。聖書の言葉は独り善がりなものではなく、人間関係の中で実践され、初めてその意味や、自分自身への発見があるのです。どういうことでしょうか?

以前、神様を愛することと、人を愛することは表裏一体であるとお話しました。この二つがそろわなければ、なかなか健全な信仰は育たないのです。健全な信仰とは、まず神様に出会い、神と人とを本気で愛そうとすることです。すると私たちは次第に自分の愛のなさに気づき、何度も十字架の愛に立ち返ることになるのです。人は「神と人との関係」に留まり、練り聖められることによって、少しずつ成長していくのです。それを面倒くさがっていては、信仰も人格も成長しないのです。

しかし間違った愛は、かえって人を傲慢にします。ある人は、天国で神様の前に出るとき、こう言うかもしれません。「神様、私はあの人にもこの人にもこんなに良いことをしてあげました」「私は○人に伝道して、その結果○人が救われました」と。でもそれにどそれほどの価値があるのでしょう。マザーテレサは言いました。「あなたが何をしたかではなく、どれだけの愛を込めたのかが重要なのです」と。

本当の愛は、自分の足跡を残しません。イエス様は「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と言われました。もしかしたらその小さい人は、心が病んで、感謝することさえ出来ないかもしれません。人の目にはちっぽけな存在なので、誰もあなたのしたことに気付かないかもしれません。でもイエス様は「わたしは知っている。それに満足し天に宝を積みなさい」と言われるのです。

また、本当の愛は、行いをともなうのです。先ほど「何をするかではなく、気持ちだ」と言いましたが、それは「気持だけで良い」と言っているのではありません。Ⅰヨハネに「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」とあるように、本当の愛には「行い」がともなうのです。なすべきことが示されたら、決して先延ばしにせず、実行するのです

この愛を実践する場所として、イエス様は「教会」を用意されました。教会は、神様の花壇のようなもので、そこに愛の花を咲かせるのは、私達一人一人なのです。そこに花が咲くのを見て、人々は「あぁきれいだな、素敵だな」と心を開くでしょう。そうして心が耕され、その人の心にも、福音の種が撒かれるのです。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
(Ⅰコリント13章13節)

もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、
それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、
すべての人が認めるのです。
(ヨハネ13章35節)

神の家族としてつくられた

【ショートメッセージ】
第15日目「神の家族として造られた」

今日から新しいテーマは「神の家族」について学びます。7回の学びの中で、神の家族の一員とされていることがどれほど素晴らしく、この家族を共に建て上げていくことが、どれほどやりがいのあることかを、共に学んでいきたいと思います。その前にまず、私たちに与えられた、現実の家族に目を向けて見ましょう。

家族は、本来、神様が与えてくださった賜物です。進化論を信じ、自然淘汰を唱える人にとって、家族の意味とは、単に「よりよい子孫を残すこと」だけでしょう。でも、神様が人間に家族を与えたのは「ヒトが一人でいるのが良くなかった(創2:18)」からです。人はひとりでは生きていけません。だから神様は、その孤独を癒し、深い愛情と信頼を経験していくために、私達に家族を与えられたのです。

でも同時に、この地上の家族は、一時的で、壊れやすい関係でもあります。この世に「完璧な家族」は存在しません。むしろ完璧を求めるほど、親も子もお互いに疲れ、傷つき、孤独を感じてしまうのです。もしかしたらどこかに、理想的な家族がいるかもしれません。しかしそれさえ永遠ではなく、必ず「別れ」はやってくるのです。愛する誰かが先に召されるのです。避けて通れない、残酷な現実です。

そんな私達に、神様は「永遠の、霊的な家族」を与えてくださいました。その家族には「別れ」がありません。どんなに求めても、裏切られることもありません。唯一完璧なお方、神様ご自身が、私達の親となり、家族となってくださったのです。このお父さんの大きな御手に抱かれるとき、私たちは本当の「癒し(安らぎ)」を経験します。そして孤独ではないように、霊的な兄弟姉妹まで与えられるのです。

私たちがこの神様の子となり、家族の一員になるためには守るべきルールがあります。全ての人が招かれているのです。しかし、土足のまま踏み込むことは許されていないのです。私たちは、三位一体の神様の、聖なる交わりに加えていただくのです。だから私達も、汚れた心を悔い改め、バプテスマを受け(罪を洗われ)、聖い霊(聖霊)に満たされていなければならないのです。そうして初めて、私たちは、神の子として正式に養子縁組され、聖なる家族の一員に認められるのです。

この家族の一員とされることが、どれほど大きなことなのか理解しているでしょうか?子とされたということは、父の、莫大な霊的な遺産(永遠のいのち、聖霊の賜物)の「相続人」とされたということです。◆天のお父様は、その相手を探していましたが、多くの人々の中から特に惨めな私たちを選び、罪の泥沼から引き上げ、イエス様の血潮によって洗い、王子(王女)のしるしである聖霊の白いマントをかぶせて下さったのです。最初から最後まで、全てが一方的な恵みでした。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、
・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・
御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。
(Ⅰヨハネ3章1節)

神を遠くに感じるとき

【ショートメッセージ】
第14日目「神様を遠くに感じるとき」

クリスチャンになりたてのころ、実は自己中心な祈りであったのに、それがかなえられたという経験を持つ人は少なくありません。しかし神様は、私達が、真の礼拝者としての、成長することを願われているので、時に御顔を隠されるのです。

主を遠くに感じる時、まずその原因を探る必要があります。以前にも引用しましたが、神様を遠くに感じるとき、私たちの側の「咎(とが)」が原因である場合があります(イザヤ59:2)。その時は、すぐにでも、その咎を取り除かなければなりません。さもなければ、次第に心はマヒし、ついには神様を求める心まで失われてしまうことがあります。そうなる前に、悔い改め、臨在を取り戻す必要があります。

しかし、いつでも罪が原因であるとも限りません。そもそも何にでも理由を求め、納得しようとするのは人間の側の傲慢ではないでしょうか?主は創造主であり、私たちは被造物です。分からないことがあって当然なのです。大切なのは、たとえ分からなくても、ヨブのごとく「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と心からの礼拝を捧げることなのです。それこそ「究極の礼拝」です。

また礼拝するときは、感覚だけに頼ってはいけません。私たちは弱いので、ヨブの十分の一の苦しみを味わうだけで、心が押しつぶされ、主の臨在を感じられなくなってしまうかもしれません。しかしそうであっても、私たちは壁に向かって礼拝しているわけではなく、そこにも主の臨在は溢れているのです。たとえ自分の気持ちがついていかなくても、そこに主を認め、心からの礼拝を捧げたいものです。

そして最後に大切なのは、神様の愛を信じることです。神様の愛を信じられないとき、私たちは「見捨てられた」と感じます。しかし私たちがそう感じても、神様は、私たちを愛するからこそ、時に試練を用意し、今しばらくの間、御顔を隠されているのです。そしてその先には「平安」と「希望」が待っているのです。それを信じるからこそ、私たちは試練の中でも、賛美を捧げることができるのです。

どうでしょうか?私たちの礼拝は「気分によらない、信仰に基づいた礼拝」となっているでしょうか?主の愛を疑わず、見捨てられたと思うときにも、心からの礼拝を捧げているでしょうか?◆その最高の模範は、イエス様です。イエス様は十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と祈られました。しかしその苦しみの中でも、最後まで父なる神に従い、愛と信仰を全うされたのです。◆あなたが見捨てられたと思うとき、このイエス様を思い出してください。イエス様はあなたの苦しみを全部知っておられます。そして、今も生きて、父なる神様の右に座して、あなたのために祈っておられるのです。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。
なぜ、御前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
私の救い、私の神を。(詩篇42:11)

神に喜ばれる礼拝

【ショートメッセージ】 第13日目「神様に喜ばれ礼拝」
私達は今まで、毎日の生活の中での「個人的な礼拝」と、週に一度みんなで集まる「公同の礼拝」について学んできました。そこで今回は、そもそも「神様は、どんな礼拝を喜ばれるのか?」ということについて、一緒に学びたいと思います。

まず、神様は「私達のすべて」を求めておられます。つまり「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、私たち神である主を愛」することを望まれているのです。決して、いい加減な献身や、曖昧な従順、残り物の時間やお金には、興味をもたれません。どうでしょうか?私達は礼拝において、私達の創造主に、100パーセントの献身と、精一杯の礼拝を捧げているでしょうか?

神様は、「バランスの取れた礼拝」を喜ばれます。私たち心は、大きく「知・情・意」(知性、感情、意志)の三つに分けることが出来るといわれます。イエス様がいわれた「心を尽くし、知性を尽くし…」とは、これら全てを総動員し、バランスの取れた礼拝を捧げなさいという意味があるのです。極端に、知識や意志ばかりを押し付けたり、反対に感情的で秩序を失った礼拝を、主は喜ばれないのです。

「霊とまことによる」の、「霊による礼拝」とは何でしょう?「霊」による礼拝の反対は、「肉」による礼拝です。そして肉による礼拝の特徴は「自分」を満足させることなのです。自分が恵まれたい、自分が祝福されたい、自分が成長したい。そのような思いが悪いのではありませんが、それが第一の目的となり、「偶像」となってしまうとき、それが「礼拝の最大の妨げ」になるのです。私達は、礼拝を捧げるのです。口先ではなく、自分の霊さえも、御前に差し出すことが大切なのです。

また「まことによる礼拝」とは、何でしょうか?「まこと」とは「真理の御言葉(エペソ1:13)」のことです。感情まかせに、バアルの預言者のような礼拝を捧げるのではなく、聖書の御言葉にもとづいて、慎み深く祈り、賛美し、聞くことが大切なのです。その中で、私達の心に感動がこみ上げてくるのなら、それこそ「聖霊からくる、聖なる感動」なのです。神様はそのような礼拝を喜ばれます。

どうでしょうか?私達の礼拝は「神様に喜ばれる礼拝」でしょうか?「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、本気で、私たち神である主を愛」しているでしょうか?◆またバランスの取れた礼拝を捧げるよう心がけているでしょうか?人にはいろいろなタイプがあるのです。自分の好む礼拝スタイルだけを「霊的」であると思い、自分と異なる、知的な人、感情的な人、意思的な人を裁いていないでしょうか?もしそうなら、その思い込みこそが、私達の「偶像」でもあるのです。まずは赦すことからはじめましょう。それが真の礼拝者への道です。

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。(マルコ12章30節)

ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。
霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。(Ⅰコリント14:15)

主の真の友となるために

【ショートメッセージ】
第12日目「主の真の友となるために」

今日どれほど多くの人々が、「親友」と呼べる存在を持っているでしょうか?現代社会では、人間関係までもが「自分にとっての損得(そんとく)」によってはかられ、なかなか真の友情を育みにくい状況にあります。ましてや、目に見えない神様とは、いかにしたら友情を築き、それを深めることができるのでしょうか?

自分から人を遠ざけていては、決して友情を得られません。神様との関係も同じです。聖書に「神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいてくださいます」とありますが、私たちも心を開き、神様に近づかなければ、神様もその人に近づくことは出来ないのです。神様は私たちを愛し、準備し、待っておられます。その愛に気づいて、心に迎え入れることが、神との友情の第一歩なのです。

また次の段階は「与えること」と「共有すること」です。ケチな人は、自ばかりを守り、人のことを考えず、なかなか友情を深められません。でもヨナタンは、ダビデのことを真っ先に考え、彼に良いものを与え、自分のことのように喜び、悲しんだのです。私達はそういった意味で、真の神の友と言えるでしょうか?この方に惜しまず捧げ、御心を喜び、滅びゆく魂のために一緒に胸を痛めているでしょうか。

また友情を深めるためには、率直な対話も不可欠です。聖書には「絶えず祈れ」とありますが、これは目をつむっての祈りのことだけではなく、絶えず祈り心をもって生活することでもあります。感謝や賛美はもちろん、不平不満、疑問、何だっていいのです。全てを打ち明けて、主とともに人生を歩むことが大切なのです。私達の生活には、まだまだ主と切り離された、自己中心な領域がないでしょうか。

神との友情には「従順」が必要ですこれだけは、人間同士の友情と大きく異なっています。人間同士の友情に「上下」はありませんが、神様と私達の間には、創造者と被造物という、明確の違いがあるのです。聖書にはこうあります。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」と。神との友情を育み、親友となるためには、従順が不可欠なのです。

最後に、私達の努力が神様との友情を育てるのではありません。本来、私たちと神様のとの間には、超えることの出来ない仕切り(罪・咎)がありました。でもイエス様が十字架に架かり、命を捨ててくださったので、その仕切りは取り除かれたのです。神殿の幕はその象徴でした。◆その上で、イエス様は全く資格のない私たちを「友」に任命されました。選ばれた私たちに出来ることは、ただ全身全霊でイエス様を愛することだけなのです。この「友情」は一方的に与えられたものです。しかし私たちには、それに相応しくなるよう努力することができます。

ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、
ダビデと契約を結んだ。(Ⅰサムエル18章3節)

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。(マルコ12章30節)

御言葉に聞く

【ショートメッセージ】
第11日目「礼拝にて御言葉を聞く」
よく「よい説教を聞いた」という言葉を聞きます。確かに説教で恵まれるのは、良いことです。でも「よい説教」って何だろうと考えたことがありますか。そもそも説教とは何なのでしょう?なぜ説教を聞かなければいけないのでしょう?説教の聞き方ってあるのでしょうか?そんなことを考えてみたいと思います。

良い説教とは「御言葉に基づいた説教」です。どんなに面白く、感情にグッと迫る話をしても、心に「御言葉」が残らなければ意味がありません。御言葉こそ、私達のいのち、力です。良い説教とは、この「御言葉の深い意味が分かり、心に残る説教」なのです。牧師はそのために召されたのですから、怠けず、自分の悟りを捨て、謙遜に聖書を調べ、よく祈り、最低20時間は準備し講壇に立つのです。

また良い説教とは「十字架の福音に根ざした説教」です。それは一年中、受難週のような「十字架」の聖書箇所から語るという意味ではありません。聖書は、約2千ページに渡り色々なことが書いてあるのですから、説教の内容も色々です。しかし、聖書のどこから語るとしても、その説教は「十字架の愛と恵みに根ざしているべき」なのです。人は愛によって変えられ、少しずつ成長していくのです。

その上で「悔い改めの実を結ぶ」のが良い説教です。聖書には「厳しすぎる」と思えることも書いてあります。しかし説教者は、それを避けて通るのではなく、愛の心から、まっすぐ語る必要があるのです。その時、奇跡が起きます。ペテロの説教の後、人々は「私たちはどうしたらよいのか」と悔い改めへと導かれました。同様に、今日でも聖書がまっすぐ語られるとき、私達の心が揺さぶられるのです。

最後に、良い説教とは「希望を与える説教」です聖書には「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」とあります。今日どれほど多くの人々が、この「道の光」を見失い、闇の中をさまよっていることでしょうか。主の御言葉は、そういった人々に光を投げかけ、人生の目的と、生きる意味を回復させるのです。まずは礼拝に来てもらう、そして聞いてもらう、それが始まりです。

もちろん牧師は完璧ではありません。まずい説教もあるでしょう。時には牧師につまずきを覚えることもあるかもしれません。◆しかしそれでも私たちが、あの少年サムエルのように「お話しください。しもべは聞いております」と謙遜に御前に出続けるなら、御言葉の戸が開き、主ご自身が豊かに語ってくださるのです。◆あなたは毎週、御言葉に期待し、礼拝に集っていますか?主は期待する人に語ってくださいます。そして主は期待する人に、御業を行ってくださるのです。

そのように、信仰は聞くことから始まり、
聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)

そのうちに主が来られ、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。
サムエルは「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。(Ⅰサム3:10)

礼拝の本質

【ショートメッセージ】 第10日目「礼拝の本質」
以前、礼拝の本質とは「自分自身を捧げることです」とお話したことがあります。しかし礼拝には、その他にもいくつかの大切な要素が含まれています。全てを一度に学ぶのは難しいですが、少しずつ大切なことから、学んでいきましょう!!

まず礼拝の本質とは「御前にひれ伏す」ことです。それは日本語の漢字の意味と同じですね。礼拝とは、神様の御前に出て「深く礼をし、心から拝すること」なのです。この礼拝行為は、どの民族にも共通して存在します。しかし多くの人々は、その対象を間違え、偶像や人、権力やお金を拝んでいるのです。この世の中にあって、私たちが、真の神様と出会い、礼拝できるとは、何という幸いでしょうか。

また礼拝とは「砕かれた魂をたずさえて」御前に出ることです。昔の人々は、いけにえをたずさえて、神様の御前に出ました。でも神様が一番喜ばれるいけにえは「砕かれたたましい」なのです。聖書には「神へのいけにえは砕かれた魂。砕かれた悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」とあります。モーセやイザヤも、この砕かれた魂をたずさえ、主を恐れ、謙遜に御前に出ました。

その上で、「心を注ぎ出して祈る」ことも大切です。その祈りの模範はハンナです。彼女は、エリが酔っていると勘違いするほど、熱心に祈っていました。彼女は言いました「私は酔っているのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです」と。またゲッセマネの園でイエス様は、もだえつつ、十字架の恐怖を正直に告白されました。しかしその祈りは「御心のままに…」と結ばれていたのです。

心を注ぎだしてはじめて、私達は自分の問題を「ゆだねる」ことが出来るのです聖書にはこうあります。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです(Ⅰペテ5:7)」。これこそ主の御前に、心砕かれ、ひれ伏し、降参した者のみが感じることの出来る「シャローム(平安)」なのです。この平安を、私達も、礼拝において、経験できるのです。

どうでしょうか?私達の「礼拝」は御心にかなったものでしょうか?その証拠に、約束の「平安」をいただいているでしょうか?◆神様を恐れ、御前にひれ伏しているでしょうか?不遜な態度・服装にはなっていませんか?◆イエス様やハンナのように、心を全て注ぎだしているでしょうか?それとも告白できない何かを隠してはいませんか?◆全てをゆだねているでしょうか?自分で握り締めてはいませんか? ◆イエス様は死に至るまで「まことの礼拝者」でした。私たちも、自分のすべて、霊までも、御手にゆだねるような真の礼拝者となりたいものです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、
霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4章24節)

イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
こう言って、息を引き取られた。(ルカ23章46節)

主の御顔が輝くとき

【ショートメッセージ】
第9日目「主の御顔が私に向かって輝くとき」

前回のところで、私たちは「主を喜ぶことと、主に喜ばれることは、表裏一体である」と学びました。つまり、礼拝において主を喜ぶことと、日常において両親を敬ったり、弱い者を助けたりすることは、同じことなのですよ、と学んだのです。◇そして今回は、その続きです。聖書には、何度も「御顔の光を、照り輝かせてください!」という表現が登場しますが、一体、主は、いつ、どんなときに、私たちを喜び、御顔の光を照り輝かせ、満面の笑みで、微笑みかけてくださるのでしょうか?その事を、ノアの信仰より、ともに教えられたいと思います。

まずノアは「いつも主と共に歩んで」いました。でも「主と共に歩む」とはどういうことなのでしょう?ミカ書にはこうあります。「それはただ公義を行ない誠実を愛しへりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」と。つまり、義を追い求めながらも、誠実かつ謙遜に歩むことなのです。時代は言い訳にはなりません。どんな時代においても、主と共に歩む者を、主は喜んでくださるのです。

またノアは、とことん主に従う「従順な心」を持っていました。その時まで、主が言われるような大雨や洪水を経験した者は一人もいませんでした。そもそも、おびただしい動物を一組ずつどうやって集めるというのでしょう!?でも彼は、たとえ頭では理解できなくても、そのまま信じて従ったのです。しかも彼は主の言われる通り、一寸の狂いもなく箱舟を仕上げました。これが主に喜ばれる信仰なのです。

更にノアは「礼拝(感謝の心)」を大切にしていました。十人のらい病人の話のように、苦しいときに主にすがりつく人はたくさんいます。でも祈りが聞かれ、試練が過ぎ去った時、感謝を捧げるために戻ってくる人がどれだけいるのでしょうか?ノアの素晴らしさは、洪水から救われた時、真っ先に祭壇を築き、主に感謝のいけにえを捧げたことです。私達の祈りは、お願いばかりになっていないでしょうか。

最後に大切なのは、ありふれた日常においても、主に従うことです。さばきが過ぎ去った時、主はまず「生めよ、増えよ、地を満たせ(9:1)」と命じられました。再び、嫁いだり娶ったり、子を育てたりという、ありふれた日常がやってきたのです。信仰とは必ずしもドラマチックなものではありません。ありふれた日常の中で主に従うことも、大切な信仰生活の一部であることを忘れてはいけないのです。

どうでしょうか?あなたは、どんなときにも主を見上げ、いつも主と共に歩んでいるでしょうか?◆祈ったり、聖書を読んだりする中で、主の御声を聞き、その声に従っているでしょうか?◆そして苦しいときだけではなく、その試練が過ぎ去ったときにも、感謝のいけにえをたずさえ、主を礼拝しているでしょうか?◆主が求めておられるのは、私たち人間と、心と心がふれあう交流なのです。そして心が通じあう瞬間、満面の笑顔と共に、御顔の光が輝くのです。^^)/

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。(民数記6章25節)
そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。(エペソ5章10節)

神を喜び、神に喜ばれる

【ショートメッセージ】
第8日目「神様を喜び、神様に喜ばれる」

前回のところで「礼拝こそ、最も人間らしい行為であり、この瞬間、私たちは豊かに主の栄光を表すことが出来るのです」と学びました。その通り、私たち人間だけが、自分の言葉と唇でもって主を褒め称えることが出来、この「愛し、愛される関係」を喜ぶことが出来るのです。今日から7回は礼拝についての学びです。

礼拝こそ、主を喜ぶ最高の瞬間です。私がイエス様の愛に出会い、180度変えられてから、礼拝が「最も退屈な時」から「至福の時」に変わりました。礼拝が終わりに近づくと「あぁ終わらないで欲しい」と心から願うのです。特別な理由はありません。ただ主の臨在の内にいること自体が、幸せで仕方がないのです。この種の喜びは、言われたから感じるものではありません。あくまで自発的なのです。

以前の私は、テレビを見るかのように椅子にふんぞり返り、時計を気にしながら、客観的に礼拝を眺めていました。そして「自分が恵まれるかどうか」をモノサシに、今日の賛美は…今日の説教は…とひたすら裁いていたのです。あなたの態度は、どちらに近いでしょうか?聖書には「あなたがたのからだを、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ霊的な礼拝です(ロマ12:1)」と勧められています。

また主を喜ぶとは、日曜日だけでなく「昼も夜も、毎日」のことでもあります。サンデー・クリスチャンという言葉がありますが、「日曜日だけは立派なクリスチャンで、平日は普通の人と変わらない」人のことを意味します。しかし本来、主を喜ぶとは、日曜日はもちろん、毎日24時間のことです。詩篇にはこうあります。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(1:2)」と。

最後に、神様を喜ぶことは、神様に喜ばれることと、表裏一体です。礼拝や賛美が大好きで、御言葉をよく読み、交わりも伝道も大好き!でも近所や家族に対しては敬愛を示さず、親に対しては恩知らず、そういった者を主は喜ばれるでしょうか?主が求められるのは、生活に根付かない、浮ついた信仰ではありません。見えないところでも謙遜に、隣人と家族に仕える者を、主は喜んでくださるのです。

どうでしょう?私たちの礼拝は、自分が恵まれることよりも、むしろ自分を捧げ、主ご自身を喜ぶことに焦点が絞られているでしょうか?日曜日だけではなく、毎日の生活において主を喜び、御言葉に従って歩んでいるでしょうか?◆また、主を喜ぶと同時に、主に喜ばれる者になることを心がけているでしょうか。たとえ相手が未信者であっても、家族と隣人に仕える者を、主は喜んでくださるのです。

「そういうわけですから、兄弟たち。
私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
(ローマ12章1節)

全ては神の栄光のために!

【ショートメッセージ】
第7日目「すべては神の栄光のために!」
私がまだ小学生だった時、夏のキャンプに出席し「これから皆は、神の栄光のために生きるんだよ」というメッセージを聞き、心のそこから、深く感動したものです。でも大人になると、いろいろ難しく考え過ぎてしまって、なかなかこの事実を喜べないのです。私たちはどうしたら、主の栄光を表せるのでしょうか?

実に単純なことです。被造物は創られた通りに生きるとき、主の栄光を表すことが出来るのです。聖書には「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる(詩19:1)」とあります。例えば鳥であれば、空を飛ぶように創られているのだから、自由に空を飛ぶことによって、神様の創造の御業(栄光)を表すことが出来ます。同様に花であれば、自分らしく咲くことによって、主の栄光を表すことが出来るのです。

では人間はどうでしょう?人間は何のために創られ、人間にしか出来ないことは何でしょうか?それこそ「礼拝」です。人間だけが心から主を喜び、礼拝を捧げることが出来るのです。こればかりは犬にも猫にもサルにも真似は出来ません。礼拝こそ、最も人間らしい行為であり、この、人間が最も人間らしい瞬間、私たちは豊かに主の栄光を表すことが出来るのです。礼拝については、次回以降、詳しく学びます。

また私たちには、きっと、「私」にしか出来ない「何か」があるはずです。聖書には「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」と勧められています。私たちに与えられている賜物は何でしょうか?そして私にしか出来ないことは何でしょうか?それを通して神様に仕えるとき、神様の栄光は、最もまぶしく輝くのです。

しかし気をつけましょう!私たちは、自分自身を輝かせるのではありません!!私たちはただ、月が太陽の光を反射しているように、イエス様の栄光を、反映するだけなのです。つまり私たちは、鏡のような存在です。この私たちが、いつも明るく輝いているためには、汚れてしまう心を、常にイエス様の血潮によって聖めていただく必要があります。そうして初めて栄光は、暗闇に、明るく輝くのです。

どうでしょうか?あなたには、この世という暗闇の中で、主の栄光を、まぶしく輝かせているでしょうか?心から喜んで礼拝を捧げ、自分の賜物を、主のために用いているでしょうか?◆それとも、自分の賜物を用いて、自分を輝かせようとしてしまったり、自分の力で主の栄光を輝かせようとして、疲れてはいないでしょうか?◆私たちは、主の栄光を反映する鏡なのです。主の血潮によって洗われ、キリストの栄光を回りに示していくのです。これは御霊なる神の働きなのです!

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を
反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
(Ⅱコリント3:18)

第6日目「神の視点からこの世を見る」

慣れない地に引っ越したり、はじめてのグループに参加する時など、私たちは何とも言えない「居心地の悪さ」を感じたり「違和感」を覚えたりします。異文化体験とは、遠い外国にあるのではなく、身近なところにもあります。例えば「結婚」もそうです。それまで全然違う所で育ってきた二人が出会い、一緒に住む時、最初は何とも言えない「違和感」や「居心地の悪さ」を感じることもあるのです。でもそんなカルチャーショックを通しても、互いに向き合い、今度は、新しい家庭での価値観が築かれていくのです。

はじめて教会に足を踏み入れた時、どんなことを感じましたか?ある人は、「そこにいる人たちの常識が分からなくて、初めはどう振る舞ったらいいのか分からなかった」と言っていました。「どういう言葉を使ったらいいのか」「どういう表現をしたらいいのか」自分は彼らから見て、おかしな行動をしていないだろうか…、不安に思ったと言うのです。でも教会に通い続け、聖書の話しを聞き、クリスチャンたちとの交わるうちに、段々と「教会に通う人々の常識」が分かって来ます。

べつに信じているわけではなくても、「あぁクリスチャンてこう考えるんだね」「きっとクリスチャンだったらこう思うよね」と、彼らの思考回路が分かってくるのです。そのすべてが、絶対的に正しい、というわけでもないかもしれません。残念ながら「聖書の教え」と「教会の常識」が、完全に一致しているわけではないからです。だから最終的には、自分でも聖書をよく読み、イエス・キリストのことばじっくり味わいながら、「福音」を発見していくことが大切なのです。

そうした中で信仰へと導かれる人もあります。最初は、反発を感じることもあったとしても、理解がすすむ中で、感じていた違和感が、じつは自分の誤解であったり、偏見であったことに気づいたりします。そして、様々なきっかけもあって、意外とすんなり「信じてみよう」という気持ちになるのです。つまり、イエスキリストが、私たちの罪のために十字架にかかり、3日目によみがえってくださったことを受け入れる決心をするのです。こうして私たちは洗礼をうけます。

これが最初に言った「結婚式」にも似ているのかもしれません。結婚式が新たなスタートであるように、洗礼式も「新たな冒険の始まり」です。いよいよ聖書に親しみ、クリスチャンとの交わりも濃くなり、時には教会(キリストのからだ)でぶつかることがあっても、互いに赦し合い、仕え合い、ともに成長して行くのです。そして以前より、神様の心「みこころ」がより分かるようになります。つまり、なにが神様に喜ばれ、悲しまれることかが、前にも増して分かってくるのです。

ここで新たな葛藤が生まれます。今度は、自分が、この世に対して「居心地の悪さ」や「違和感」を感じてしまうのです。今まで当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなり、平気だと思っていたことに罪悪感を覚えたり、全然興味のなかったことが大事になり、生活のリズムも変わって来ます。そういった中で、自分は良くても、周りの人々が「クリスチャンになった自分」を異質に扱ったり、時にはからかったりしはじめます。

仕方がありません。私たちは「新しく生まれ変わった」のですから。もはや、この世の者であって、この世の者でないのです(ヨハネ15:19)。この地上に生きながら、国籍は天に移されています。異文化(違和感)を感じて当然、もし、何も感じていないのなら、むしろその人は本当に生まれ変わっているのでしょうか?言ってみれば、感じるべき「違和感」なのです。大切なのは、違和感を抱えながらも、この世から遠ざかるのではなく、人々を愛し、神様の愛を伝えるために、その中に飛び込んで行くことです。ちょうどイエス様が、天の栄光を捨てて人となり、私たちの間に住んでくださったように。

どうでしょうか?感じるべき違和感を抱きつつも、人々を心から愛しているでしょうか?



 「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかしあなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:19) 

「彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:19-20) 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 

「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)

第5日目「神の視点から人生を見る」

人には様々な能力が与えられています。今日の話しの中に登場するタラントは、「タレント(特別な能力や才能)」の語源ともなっている言葉です(マタイ25章)。話の中の主人は、旅に出る際、しもべたち呼んで、能力に応じて財産を預けられました。一人には5タラント(約3億円)、一人には2タラント(1億2千万円)、一人には1タラント(6千万円)。1人も0タラントの者はいませんでした。誰もが、何かしらのタラント(才能)を有しているのです。周りと比べて「1ラントしかない」と思うかもしれませんが、それでさえ、かなり高額であることが分かります。そして多くの人は、そのタラントを、ただ自分のためだけに使うのです。

よく読むと、そのタラントは、一時的に主人から預かっているにすぎないことがわかります。となると、もうけたお金も、自分ではなく、主人の財産になるのです。聖書にはこうあります。「すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(25:20-21)」預かっているのに、自分のものにしてしまったら、それは私物化です。立派な「泥棒」です。あなたはいつの間にが、預かったタラントを私物化していませんか?

そもそもなぜ、主人はしもべに大切な財産を預けたのでしょうか?本人も言ってのとおり、銀行に預けておくことだって出来たのです(25:27)。その方がリスクも少なく利息だって付いたことでしょう。でも主人はあえて、その財産を、しもべにまかせたかったのです。そうすることで、彼らを信用し、大胆にチャレンジさせ、失敗してよいから、人生を楽しみ、成長して欲しかったのです。それが主人(神様・天のお父さん)の愛だったのです。

そして5タラント預かった者と2タラント預かった者は、みごとその期待にこたえて、さらに5タラントと2タラントをもうけました。主人もたいそう喜び、こう言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(20:21,23)」そうなのです。主人の一番の喜びは、自分の財産が増えることではなく、「主人の喜びをともに喜んでいる」しもべの姿を見ることだったのです。財産を任せたのは、それを知るためのテストでもありました。

しかし、1タラント預かったしもべは、そんな主人の心を全く理解していませんでした。そればかりかこう言うのです。「ご主人さま。あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました(24)」。それを聞いた主人はどんなに悲しかったことでしょう。このしもべは「自分のなまけ心(26)」を正当化するために、主人を冷酷非道な「ひどい方」に仕立て上げ「だから自分は1タラントを埋めたんだ」と主張したのです。

また、彼はこう考えたのかもしれません。「どうせ儲けたとしても、主人のものなんだ。頑張るだけ損だ」「だいたい、なんで俺が1タラントなんだ?やってられるか!」。彼はそうやって主人の喜びを、自分の喜びにすることが出来なかったのです。彼は、自分だけを愛し、主人を愛していませんでした。愛する人が喜ぶ時、私たちは自分も嬉しくなります。

あなたには、どんなタラントが預けられているでしょうか?何もない人はいません、誰でも必ず、何かしらの賜物が預けられています。あなたは、それを何のために用いていますか?自分のためだけでしょうか?しかしそれは、本来、神と人とを喜ばせるために、預けられているものなのです。自分のためだけに用いても、地面に埋めておいてもいけません。


『よくやった。良い忠実なしもべだ。
 あなたは、わずかな物に忠実だったから、
 私はあなたにたくさんの物を任せよう。
 主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイ25:21



第4日目「永遠に生きる存在として」

今日のテーマは「永遠」です。私たちは普段、なかなかこの問題と向き合おうとしません。忙しいせいもあるでしょう。毎日生きていくのがやっとで、先のこと、特に死んだ後のことなど考える暇がないのです。子育て中のお母さんは尚更でしょう。小さな子どもを育てるのにやっとで、そんな先のことなどとても考えられません。でも誰にでも、死という問題はやってきます。あるのは、その時になって慌てるか、今から備えておくかの違いです。

聖書には「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい」とあります。その理由は、「そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるから」です(伝道者の書7章2節)。身近な人の死に直面し、私たちはハッと我に帰るように、目の前の生活以外のこと、人は死んだらどうなるのか、つまり永遠について考え始めるのです。◆中世の修道士たちは「メメントモリ」(死を覚えよ・ラテン語)と挨拶をしました。それによって、いつも「死」と向き合うためです。「死」を恐れるあまり、人生を無駄にすることではありません。むしろ自分の人生(時間)には限りがあることを覚えて、「今を精一杯、有意義に生きるため」なのです。あなたは、この「死」の問題と向き合っていますか?

このことを忘れてしまうとき、私たちの人生はズレはじめます。聖書に出てくる金持ちの男は心の中でこう考えました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12章19節)こうして彼は、自分の人生を究極に満たしてくれる神の存在と、自分の富を他者と分かち合うことを、忘れてしまったのです。

また、主人から一タラントを預かったしもべは「出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠し」(マタイ25章18節)てしまいました。彼の人生にとって大切なことは、無難に生きて、無難に人生を閉じることでした。私たちは、どのように生きたかについて、「いのち」を与えられた神様に責任を問われます。ただ単に間違い(罪)を犯さなければいいのではありません。それでは、何もせず、「怠け者」と叱責されたしもべと同じです。大切なのは、与えられている「時間」と「賜物」を活かして、神と人とを愛することなのです。

この地上の生涯がすべてではありません。聖書にはこうあります「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です(Ⅱコリント5章1節)」。そこに入るためには、どうしたら良いのでしょう?自分の罪を認め、イエス・キリストがその罪のために十字架にかかり、3日目によみがえられたことを信じることによってです。

それと同時に、自分の人生(時間)や賜物を、喜んで他者と分かち合うことも大切です。ギリシャ語で「罪」のことを「ハマルティア」と言いますが、もともとの意味は「的外れ」です。あの金持ちのように、自分のためだけに生き、蓄える人生は、的外れなのです。しかし、喜んで神の人とのために自分を用い、活用する、生き方は「天に宝を積む」生き方です(マタイ6章20節)。それこそ、聖書が私たちに教えている、的を射た、神様に喜ばれる人生なのです。

人生は死んでお終いではありません。むしろ、それから永遠が始まるのです。そして私たちは、生きている間に、その永遠に対して、備えることが出来るのです。



人間には、
一度死ぬことと
死後にさばきを受けることが
定まっている。
ヘブル人への手紙9章27節

第3日目「人生を動かすもの」

今日のテーマは「人生を動かすもの」ですが、正確には「人生を導くもの」と言ったほうが良いのかもしれません。私たちは自分で決断し、人生を歩んでいるようでも、実は様々な力によって、人生を導かれているのではないでしょうか?

今日のテーマは「人生を動かすもの」ですが、正確には「人生を導くもの」と言ったほうが良いのかもしれません。私たちは自分で決断し、人生を歩んでいるように思えても、実は、様々な力によって、人生を導かれているのではないでしょうか?その一つ一つを、見てみましょう。

ある人は「肉の欲」によって人生を導かれています。ロトがまさしくそうでした。彼は遠くにある神様の祝福よりも「目先の利益」を求め、損得勘定によって生きていたのです。別な言い方をすれば、目に見えるものしか信頼できませんでした。また、今日の聖書の箇所にはありませんが、別な人々は「うらみ」や「罪責感」という、負の感情によって、人生を導かれています。過去に起こった事や、人から受けた悪をなかなか許せず、いつも思い出し、後ろばかりを振り返って、時には「その負の感情」を爆発させたりして、自分の身をすり減らし、周りも困らせてしまうのです。

またある人は「不安」によって人生を導かれています。とにかく現状維持が大切で、新しいことには挑戦しようとせず、決まりきった毎日を続けています。神様はその牢獄から、あなたを連れ出したいと願っておられるかもしれません。またある人は「人の目」を気にして生きています。「これをしたらどう思われるか?」「どう見られるか?」ばかりを気にして、したくもないことを、我慢して続けているのです。自分が、そういう人生を選びとっているにもかかわらず、本当の満足はありません。結局は「仕方がなく」そう生きているにすぎないからです。

そういうことを続けていると、いったいどうなってしまうのでしょう?まずは、段々と「無気力」となり「喜び」を失ってしまいます。そして目に見えないところでは、徐々に、神様が与えようとしておられる「本当の祝福」から遠ざかってしまうのです。神様は、私たちの人生に、良いことを計画しておられます。聖書にはこうあります。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主の御告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」しかし私達の選択の仕方が、その祝福を遠ざけてしまっているのです。何と残念で、もったいないことでしょうか。

大切なのは、まず「目標つまりゴールを設定すること」です。パウロは「神の栄冠を得るために一心に走る」と言いました。私たちに与えられた時間は限られています。時間を有効に使うためには「何に情熱を傾けるべきで」「何に傾けるべきでないか」を知らなければなりません。あなたには、一心に目指し続ける、確かな人生のゴール(優先順位)があるでしょうか?また同時に、その人生という旅を「誰とともに歩むか」ということも大切です。知人や友人、伴侶はもちろん、もっと大切なのは、私たちを愛し、最高の友となってくださるお方、イエス・キリストとともに歩むことなのです。このお方と歩む時、荒れ地も花園へと、変えられるのです。

賢い人生の選択は大切です。しなくても良い苦労というものがあります。でも人生とは必ずしも「二者択一」とは限りません。たとえ「間違った道」を選んでしまったとしても、あなたが、そこでとどまり、それまでの人生を振り返り、本当に悔い改め、「これからは神様と一緒に、あなたを第一として歩んで行きます」と決断をするなら、そこから新しい人生が始まるのです。



神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて
益としてくださることを、私たちは知っています。
ローマ8章28節

第2日目「全ては偶然ではない」

今日のテーマは「すべては偶然ではない」です。私たちは「何のために生きているのか」という問について学んでいますが、それを知るためには、まず私たちが「何のために生まれてきたのか」を知らなければなりません。私たちが生まれてきたことには何か意味があるのでしょうか?それとも単なる偶然なのでしょうか?

多くの人は、こういった人生の意味を説明するのに「神様」を持ちだすことを嫌います。そして、神様を認めず、全てを「科学的」に説明しようとするのです。例えば、宇宙は「偶然(ビッグバン)によって宇宙が誕生し、偶然が重なりあって、原子と分子が生まれ、有機物が生まれ、有機物がアメーバになり、アメーバが生物になり、生物が進化し人間が生まれた」と。科学を否定するわけではありませんが、もし科学で説明できることが全てで、その背後には何の目的も計画もなく、愛とか意志を有して私たちを創造した人格的な存在もないとするならば、何と虚しいのでしょう。私たちとは、単なる偶然と膨大な時間が折り重なって出来た、「偶然の産物」なのでしょうか?

まことしやかな「科学」に騙されてはいけません。科学は色々なメカニズムやプロセスは教えてくれますが、万能ではありません。人生の意味を説明するには、目に見えない人格的な存在が必要です。そのお方こそ神様です。私たちは「神様の目的と、ご計画に従って生まれてきた」のです。私たちは、たまたま生まれてきたのではありません。神様と呼ばれるお方が、愛をもって私たちを母の胎に形づくり、目的と計画を持って、この時代とこの国に送り出して下さったのです。これを、偶然に対する必然、すなわち「神の摂理」と呼びます。親の計画や願いによるのでもありません。聖書にこうあります。「神様が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた。」

また神様の目的は、私達の人生全体に及んでいます。人生には色々な事が起こります。悲しい事も起こります。また、神様のご計画と愛によって、すべての人が生まれてくるなら、どうして…と思えることもあるでしょう。ある人々は、それらが偶然起こったかのように、驚き、悲しみ、絶望にくれます。でもクリスチャンは、すべての出来事の背後に、神様のご計画と愛の配慮を感じ取ります。それは決して簡単なことではありませんし、最後の最後まで、やっぱり理解できないこともあります。でも、私たちの理解を超えて、それでも私たちのことを愛し、ご計画を持っていてくださる神様を信じるのです。それが本当の意味で、神様を「信じる」ということなのです。

そして神様は、私たちの人生に責任を持ってくださいます。聖書にはこうあります。「あなたがたが白髪になってもわたしは背負う。背負って救い出す」。「ゆりかごから墓場まで」どころか「生まれる前から天国まで」神様は私達を愛し、導いてくださいます。どうでしょうか?最後の一瞬まで、この神様の愛を信じ、人生の意味を求めて生きるでしょうか?それとも、偶然に生まれ、何の目的も持たないまま、数十年の人生を終えて行くでしょうか?どうかこれを読んでいる全ての人が、意味のある人生を、最後の最後まであきらめず、希望を持って生きることが出来ますように。

あなたの、この地上の生涯には、神様の愛と、ご計画が、あふれている。



あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、
わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
(イザヤ46章3-4節)

第1日目「全ては神からはじまる」

この世の教えは、全て「自分」から始まっています。「自分の夢は」「自分の願いは」など、自分が心の王座に座り、自分の思い通りに自分の人生を導こうとするのです。時には子供にも、自分の夢を投影するでしょう。そのような生き方は、どこまでいっても満足がありません。それは人間の欲望に限度がないからです。

たとえ物質的な望みを全部かなえたとしても、それで満足できるわけではありません。人間の心は、物質だけでは満たされず、自分がどこから来て、どこに行くのかといった、究極の問を宿しているからです。有名な、数学者にして神学者であった、ブレーズ・パスカルはこう言っています。「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」ではいったい、本当の満足と平安は、どうしたら見つかるのでしょうか?

私たちは神様につくられた存在なのだから、本当の平安と満足は、神様の内にあります。私たち人間が、生きていく上で欠かせないのは「愛」です。人からの愛も大切です。でも「永遠に変わらない愛」「決して見捨てない愛」を人に求めても、見つかりません。「永遠の愛」は、ただ神様だけ、与えることが出来るのです。聖書にはこうあります。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7:7)」。これは、「永遠の愛」を、神様に「求めなさい」「探しなさい」「たたきなさい」、そうすれば「必ず見つかるから」という約束なのです。

作られた作品には、すべて「作られた意図」が存在します。制作者は、その作品がどのように用いられるか想像しながら、楽しみに、心をこめて、制作します。例えばバイオリンは、美しい音楽を奏でて、人々を喜ばせます。その光景を思い浮かべながら、制作者は作業を進めるでしょう。でも、いざ出来上がったバイオリンが、フライパンとして用いられたり、ご飯をかき混ぜるしゃもじとして使われたりしたら、制作者はどんなに悲しむでしょうか。

でも多くの人々が、与えられた目的を無視し、自分勝手に生きているのです。そして、私たちを創造された、創造主(神様)を悲しませています。また、作品には、取扱説明書があり、その通りに用いないと色々不具合が出ます。人間の取扱説明書は「聖書」です。そこに、神の子としての生き方が記されているのです。それを無視して生きる時に、様々な人生の不具合(不安、焦り、孤独、関係の破綻など)が生じます。しかし聖書をよくよんで、その言葉に自分を従わせていく時に、壊れてしまった関係の回復と、心の平安(平和)が与えられるのです。

あなたは今まで、何を追い求めてきたでしょうか?そしてこれからは、何を求めていきたいと願っているでしょうか?◇私たちには、「神の作品」として神様が備えられた「人生の目的」があるのです。それを求めるとき、私たちは「本当の平安」を発見するのです。



なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。
天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、
王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。
万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
(コロサイ1:16)