火曜日, 7月 03, 2007

「しもべとして生きる(下)」

【ショートメッセージ】
第34日目 「しもべとして生きる(下)」


奉仕において大切なのは「心」です。聖書には「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。(箴言16:2)」とあります。ユダのアマツヤ王は「主の目にかなうことを行なったが、全き心をもってではなかった。(Ⅱ歴代誌25:2)」ともあります。私達の奉仕はどうでしょうか?私たちの奉仕(行い)は、純粋な動機から生まれているでしょうか?

不純な動機とは、奉仕を「神様との取引の道具」だと考えることです。例えば、ある人はこのように祈ります。「神様、もしあなたが私を祝福し、この祈りをかなえてくだされば、私はもっとあなたのために奉仕し、もっと献げます」と。またある人はこう祈ります。「神様なぜでしょうか?私はあなたのためにこんなに奉仕し、こんなに献げたのに、あなたはちっとも祝福してくださいません」と。何かがおかしいですね。どうして神様が、その取引に応じなければいけないのでしょう?

またある人は、奉仕を「自己実現の道具」に使います。熱心に奉仕する姿を通して、周りの人々から好かれ、立派だと認められ、自分の人生に充実感が欲しいと思うのです。しかし実際の奉仕はとても地道なものですから、少しやってみて、その充実感が得られず、誰も自分の奉仕に注目してくれないと、ひどくガッカリし、やる気を失ってしまうのです。ともすれば周りの人々を無関心だと責め、かえって教会を混乱させてしまいます。いったい誰のための奉仕だったのでしょうか?

全てが間違っているのではありません。確かに神様は、私達の奉仕を喜び、祝福してくださることもあります。しかしそれは「結果」であって、「目的」ではないのです。この両者を履き違えてはいけません。人からの賞賛も同じです。兄弟姉妹の労は、もっと積極的にねぎらってもよいでしょう。しかし聖書には「あなたは施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい(マタイ6:3)」とありますから、奉仕する本人はそれを当然の権利を考えてはいけないのです。ましてや「誰からも感謝されない」と不満に思うのは見当違いです。

そもそも奉仕は、誰のためなのでしょうか?もちろん神様のためです。でも多くの人は「自分の祝福」や「自己実現」という「自分の目的」のために、神様を利用しようとしているのです。それは奉仕ではありません。奉仕とは、神様の目的のために、自分を使っていただくことなのです。私達は、主のしもべです。しもべが、主人のために何かをしても、「当然のことをしたまで」なのです。「自分の権利」を主張せず、自分を「無」にし、純粋な、心からの奉仕を捧げたいものです。

純粋な動機で主に仕えるとき、しもべ同士の関係も良くなります。自分の権利を主張し、主人の様になろうとするから、裁き合いやイガミ合いが生まれるのです。◆しかし私達はしもべに過ぎません。皆が同じ主人を見上げ、同じ主人に仕えているのです。そしてその一番低いところには、イエス様の十字架があるのです。

それで、主であり師であるこのわたしが、
あなたがたの足を洗ったのですから、
あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
(ヨハネ4章14節)