木曜日, 10月 19, 2006

交わりが壊れるとき

【ショートメッセージ】 第19日目「交わりが壊れるとき」
教会の「交わり」は、本来、麗しい愛の交わりです。しかし、この交わりは「救われた罪びとの集まり」でもあるので、時に、コリントの教会がそうであったように「私はパウロに」「私はアポロに」「私はキリストに…」といった具合にバラバラになってしまうことがあるのです。それを未然に防ぎ、主にある本物の交わりを築くためにも、今回はあえて「問題」に焦点を当ててみたいと思います。

まず、群れがひとつであるためには、指導者の姿勢が問われている。前回学んだように、交わりの中心はあくまで「イエス様ご自身」です。しかし指導者がその「中心」になってしまったり、働き人によって党派(グループ)が形成されてしまうなら、その交わりは健全さを失っています。指導者の第一の仕事は、人々を神様につなげることであり、自分につなげることではありません!そのことを自戒し、人間的な牧会を退け「まずは自らが模範的なキリストのしもべ」となるべきです。

その上で、群れ全体は、その指導者を認めることが大切です。デオテレペスは自分が属する群れの指導者を軽んじました。そして自分が「かしら」になろうとして、指導者をののしり、交わりを完全に破壊してしまったのです。パウロはこう言っています。「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。(Ⅰテサ5:12)」

しかし時には、親切な言動が分裂を招くこともあります。デオテレペスのようなケースは比較的容易に、誰かが「おかしいなぁ」と気付くでしょう。しかしアブシャロムのようなケースはどうでしょうか?その人は、とても親切に近づいてきます。「何か悩んでいますか」「あなたは正しいですよ」「それは教会がちょっと変ですね」と言葉巧みに心を盗み、知らない間に教会の中に、別なグループを作ってしまうのです。難しいのは、多くの場合、それらが善意でなされていることです。

最後に噂話には気をつけましょう。前回学んだようにクリスチャンの交わりの特徴は「互いの罪や弱さを告白し合うこと」です。でも話した内容が「噂」として教会全体に広まってしまったらどうでしょうか?その人は二重に傷つき、もう二度と話そうとは思いません。噂話とは本人のいないところで、相手に不利な証言をすることです。交わりでは基本的に「他人のことではなく自分のこと」を話しましょう

教会の分裂分派については、学ぶだけでも心が痛みます。そして私たち以上にイエス様ご自身が悲しまれるのです。教会とは「キリストのからだ」ですから、自分勝手な言動によって、引きちぎってはいけないのです。◇そのために、私たちに出来ることがあります。それは一人一人がこのイエス様を愛し、十字架にまで従われたその姿に倣い、兄弟姉妹に仕え、自分の十字架を負っていくことです。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
(マルコ9章34節)

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2章6-8節)