火曜日, 7月 03, 2007

「使命の為に造られた」

【ショートメッセージ】
 第36日目 「使命の為に造られた」


「人生を導く五つの目的」も、いよいよ最後の目的となりました。それは「宣教」です。この世の仕事であれば、いずれ退職もあるでしょう。しかし、この霊的な奉仕には退職がないのです。なぜなら宣教とは、クリスチャンの人生そのものであり、生活の一部だからです。この最高の奉仕について一緒に学びましょう。

ある人々は「大宣教命令」を聞いて戸惑いを覚えます。なぜなら、自分は誰かにバプテスマ(洗礼)を施すことはないし、海外に行って御言葉を宣べ伝えることもない。そういうことは牧師や宣教師のすることではないか?自分は、十字架によって救われ、教会に通い、御言葉を聞ければそれで満足。そもそも、この大宣教命令は、主の弟子(使徒)たちに語られているのではないか、と考えてしまうのです。

しかし、そうではありません。イエス様が天に帰られるとき、イエス様はご自分の、霊的なからだ、すなわち「教会」を地上に残されました。そして天から聖霊を遣わし、今もその働きを支え続けておられるのです。つまり「大宣教命令」とは、この「教会に与えられた至上命令」なのです。教会に属する全てのクリスチャンは、福音を宣べ伝え、この教会の一員として海外宣教を支える責務があります。

パウロはそのことをよく理解していました。彼はこの宣教を「返さなければいけない負債」とか「強いられたにしても、ゆだねられた務め」と表現しました。もちろん彼は、嫌々ながらではなく、使命感に溢れ、時が良くても悪くても福音を宣べ伝えたことでしょう。しかし宣教とは、たとえ「したくなくても」、尊い血潮によって贖われたものとして、「当然神様に返すべき負債」のようなものなのです。

その際、気をつけるべきことがあります。宣教というと、何が何でも「宣べ伝えること」ばかりが強調されますが、「どのように」「誰に」と考えることも大切なことです。聖書にも「豚に真珠を与えるな」とありますが、キリスト教に偏見を持ち、敵意をむき出しにする人々に不用意に語るなら、無益な議論や、争いなどが生じ、全然益にならないばかりか、かえって災いを招いてしまうことだってあるのです。

時には「聞く宣教」「無言の宣教」も有益です。もちろん時をとらえて大胆に語ることは大切です。しかし語りつつ、その人の心をよく「耕す」ことも忘れてはいけません。これには時間がかかりますし、忍耐も必要です。でも遠回りが、実は近道ということだってあります。相手の言葉によく耳を傾け、普段から無言の立ち振る舞いのうちに愛を実践するなら、その人の心は少しずつ耕されていくのです。

伝道と宣教は違います!「伝道」は言葉によることが大きいのですが、「宣教」は、その言葉(福音)を伝えるための、すべての働きを含みます。つまりドルカスの様に「裁縫」をもって宣教を支えることだって出来るのです。◆大宣教命令が「教会」に与えられた命令なら、あなたも、その中で出来る働きがきっとあるはずです。あなたはどのようにして、この「大宣教命令」に従うことがありますか?

「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」 (マコ16章15節)

私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、
教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
(コロサイ1章25節)