金曜日, 10月 06, 2006

神を喜び、神に喜ばれる

【ショートメッセージ】
第8日目「神様を喜び、神様に喜ばれる」

前回のところで「礼拝こそ、最も人間らしい行為であり、この瞬間、私たちは豊かに主の栄光を表すことが出来るのです」と学びました。その通り、私たち人間だけが、自分の言葉と唇でもって主を褒め称えることが出来、この「愛し、愛される関係」を喜ぶことが出来るのです。今日から7回は礼拝についての学びです。

礼拝こそ、主を喜ぶ最高の瞬間です。私がイエス様の愛に出会い、180度変えられてから、礼拝が「最も退屈な時」から「至福の時」に変わりました。礼拝が終わりに近づくと「あぁ終わらないで欲しい」と心から願うのです。特別な理由はありません。ただ主の臨在の内にいること自体が、幸せで仕方がないのです。この種の喜びは、言われたから感じるものではありません。あくまで自発的なのです。

以前の私は、テレビを見るかのように椅子にふんぞり返り、時計を気にしながら、客観的に礼拝を眺めていました。そして「自分が恵まれるかどうか」をモノサシに、今日の賛美は…今日の説教は…とひたすら裁いていたのです。あなたの態度は、どちらに近いでしょうか?聖書には「あなたがたのからだを、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ霊的な礼拝です(ロマ12:1)」と勧められています。

また主を喜ぶとは、日曜日だけでなく「昼も夜も、毎日」のことでもあります。サンデー・クリスチャンという言葉がありますが、「日曜日だけは立派なクリスチャンで、平日は普通の人と変わらない」人のことを意味します。しかし本来、主を喜ぶとは、日曜日はもちろん、毎日24時間のことです。詩篇にはこうあります。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(1:2)」と。

最後に、神様を喜ぶことは、神様に喜ばれることと、表裏一体です。礼拝や賛美が大好きで、御言葉をよく読み、交わりも伝道も大好き!でも近所や家族に対しては敬愛を示さず、親に対しては恩知らず、そういった者を主は喜ばれるでしょうか?主が求められるのは、生活に根付かない、浮ついた信仰ではありません。見えないところでも謙遜に、隣人と家族に仕える者を、主は喜んでくださるのです。

どうでしょう?私たちの礼拝は、自分が恵まれることよりも、むしろ自分を捧げ、主ご自身を喜ぶことに焦点が絞られているでしょうか?日曜日だけではなく、毎日の生活において主を喜び、御言葉に従って歩んでいるでしょうか?◆また、主を喜ぶと同時に、主に喜ばれる者になることを心がけているでしょうか。たとえ相手が未信者であっても、家族と隣人に仕える者を、主は喜んでくださるのです。

「そういうわけですから、兄弟たち。
私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、
聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
(ローマ12章1節)