金曜日, 10月 06, 2006

あなたの属するところ

【ショートメッセージ】
第17日目「あなたの属するところ」

個人主義的な傾向の強い現代社会において、「特定の教会」に属することは、窮屈でナンセンスなことのように思えるかもしれません。時には転勤などの事情により、なかなか教会を決められないときもあります。しかしそれでも聖書は、気ままな教会生活を厳しく戒めていますから(Ⅰテモ5:12-14,Ⅱテモ4:3)、出来るだけ早い時期にどこかの教会に落ち着き、そこの指導に従い、何らかの責任を担い、じっくりと信仰を養うのが良いのです。「属する」ことを軽んじてはいけません。

そもそも、なぜ教会はキリストの「からだ」に譬えられるのでしょうか?それは、教会が単なる「組織」や「団体」ではなく「生き物」だからです。どんなに優れた陸上選手の足であっても、体から切り離されたら、数時間で死んでしまうでしょう。それと同じように、私たちも「キリストのからだ」の一器官なのですから、当然、そのいのちの源である「からだ(教会)」に繋がっている必要があるのです。

また同時に、教会は「キリスト」のからだでもあるのです。もしあなたの婚約者が「きみとは結婚したいけど、君の体はいらないよ。そんなの無くたっていいし、他の人の体だっていい」と言ったらどうでしょうか?そこに本当の愛があるでしょうか?同じように「イエス様のことは大好きだけど、教会はどうでもいい。行かなくてもいいし、反対にどこに行っても変わらない」という態度はありえないのです。イエス様は、その目の前の教会のためにも命を捨てられました(エペソ5:25)。

「キリストのからだ」においては、弱い部分が特に大切です。聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ロマ12:15)」とあります。それは私たちが「一つのからだ」に属しているからです。もし指先にとげが刺さされば、からだ全体が痛むでしょう。お腹が痛めば全身で苦しむのです。それと同じように、私たちは特に弱い器官をいたわりながら「喜びと悲しみ」を共有するのです。

最後に、それぞれの役割を果たすことが大切です。もし心臓が「単調な働きにウンザリした」といって止まってしまうならどうなるでしょう?手足のつめが「自分なんかいなくたっていい」といって剥がれ落ちてしまったらどうなるでしょう?私達は、自分でどう思おうと、必ず何らかの「役割」と「賜物」が与えられているのです。一人のヒーローではなく、みんなが自分の賜物を活用し、からだ(教会)に仕えていくとき、「福音」を述べ伝えられ「主の栄光」が現れるのです。

今日の箇所でリック・ウォレンは厳しくこう指摘しています。「多くのクリスチャンは、教会を利用するものの、愛してはいない」と。◇私は全てのクリスチャンは、からだである教会を愛していると信じます。でも積極的に「属し」自分の「役割」を果たしているでしょうか?今日もう一度そのことを、確認したいものです。

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって
満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1章23節)

一つのからだには多くの器官があって、
すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
(ローマ12章4-5節)