金曜日, 10月 06, 2006

第2日目「全ては偶然ではない」

今日のテーマは「すべては偶然ではない」です。私たちは「何のために生きているのか」という問について学んでいますが、それを知るためには、まず私たちが「何のために生まれてきたのか」を知らなければなりません。私たちが生まれてきたことには何か意味があるのでしょうか?それとも単なる偶然なのでしょうか?

多くの人は、こういった人生の意味を説明するのに「神様」を持ちだすことを嫌います。そして、神様を認めず、全てを「科学的」に説明しようとするのです。例えば、宇宙は「偶然(ビッグバン)によって宇宙が誕生し、偶然が重なりあって、原子と分子が生まれ、有機物が生まれ、有機物がアメーバになり、アメーバが生物になり、生物が進化し人間が生まれた」と。科学を否定するわけではありませんが、もし科学で説明できることが全てで、その背後には何の目的も計画もなく、愛とか意志を有して私たちを創造した人格的な存在もないとするならば、何と虚しいのでしょう。私たちとは、単なる偶然と膨大な時間が折り重なって出来た、「偶然の産物」なのでしょうか?

まことしやかな「科学」に騙されてはいけません。科学は色々なメカニズムやプロセスは教えてくれますが、万能ではありません。人生の意味を説明するには、目に見えない人格的な存在が必要です。そのお方こそ神様です。私たちは「神様の目的と、ご計画に従って生まれてきた」のです。私たちは、たまたま生まれてきたのではありません。神様と呼ばれるお方が、愛をもって私たちを母の胎に形づくり、目的と計画を持って、この時代とこの国に送り出して下さったのです。これを、偶然に対する必然、すなわち「神の摂理」と呼びます。親の計画や願いによるのでもありません。聖書にこうあります。「神様が私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた。」

また神様の目的は、私達の人生全体に及んでいます。人生には色々な事が起こります。悲しい事も起こります。また、神様のご計画と愛によって、すべての人が生まれてくるなら、どうして…と思えることもあるでしょう。ある人々は、それらが偶然起こったかのように、驚き、悲しみ、絶望にくれます。でもクリスチャンは、すべての出来事の背後に、神様のご計画と愛の配慮を感じ取ります。それは決して簡単なことではありませんし、最後の最後まで、やっぱり理解できないこともあります。でも、私たちの理解を超えて、それでも私たちのことを愛し、ご計画を持っていてくださる神様を信じるのです。それが本当の意味で、神様を「信じる」ということなのです。

そして神様は、私たちの人生に責任を持ってくださいます。聖書にはこうあります。「あなたがたが白髪になってもわたしは背負う。背負って救い出す」。「ゆりかごから墓場まで」どころか「生まれる前から天国まで」神様は私達を愛し、導いてくださいます。どうでしょうか?最後の一瞬まで、この神様の愛を信じ、人生の意味を求めて生きるでしょうか?それとも、偶然に生まれ、何の目的も持たないまま、数十年の人生を終えて行くでしょうか?どうかこれを読んでいる全ての人が、意味のある人生を、最後の最後まであきらめず、希望を持って生きることが出来ますように。

あなたの、この地上の生涯には、神様の愛と、ご計画が、あふれている。



あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、
わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
(イザヤ46章3-4節)