金曜日, 10月 06, 2006

神に喜ばれる礼拝

【ショートメッセージ】 第13日目「神様に喜ばれ礼拝」
私達は今まで、毎日の生活の中での「個人的な礼拝」と、週に一度みんなで集まる「公同の礼拝」について学んできました。そこで今回は、そもそも「神様は、どんな礼拝を喜ばれるのか?」ということについて、一緒に学びたいと思います。

まず、神様は「私達のすべて」を求めておられます。つまり「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、私たち神である主を愛」することを望まれているのです。決して、いい加減な献身や、曖昧な従順、残り物の時間やお金には、興味をもたれません。どうでしょうか?私達は礼拝において、私達の創造主に、100パーセントの献身と、精一杯の礼拝を捧げているでしょうか?

神様は、「バランスの取れた礼拝」を喜ばれます。私たち心は、大きく「知・情・意」(知性、感情、意志)の三つに分けることが出来るといわれます。イエス様がいわれた「心を尽くし、知性を尽くし…」とは、これら全てを総動員し、バランスの取れた礼拝を捧げなさいという意味があるのです。極端に、知識や意志ばかりを押し付けたり、反対に感情的で秩序を失った礼拝を、主は喜ばれないのです。

「霊とまことによる」の、「霊による礼拝」とは何でしょう?「霊」による礼拝の反対は、「肉」による礼拝です。そして肉による礼拝の特徴は「自分」を満足させることなのです。自分が恵まれたい、自分が祝福されたい、自分が成長したい。そのような思いが悪いのではありませんが、それが第一の目的となり、「偶像」となってしまうとき、それが「礼拝の最大の妨げ」になるのです。私達は、礼拝を捧げるのです。口先ではなく、自分の霊さえも、御前に差し出すことが大切なのです。

また「まことによる礼拝」とは、何でしょうか?「まこと」とは「真理の御言葉(エペソ1:13)」のことです。感情まかせに、バアルの預言者のような礼拝を捧げるのではなく、聖書の御言葉にもとづいて、慎み深く祈り、賛美し、聞くことが大切なのです。その中で、私達の心に感動がこみ上げてくるのなら、それこそ「聖霊からくる、聖なる感動」なのです。神様はそのような礼拝を喜ばれます。

どうでしょうか?私達の礼拝は「神様に喜ばれる礼拝」でしょうか?「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、本気で、私たち神である主を愛」しているでしょうか?◆またバランスの取れた礼拝を捧げるよう心がけているでしょうか?人にはいろいろなタイプがあるのです。自分の好む礼拝スタイルだけを「霊的」であると思い、自分と異なる、知的な人、感情的な人、意思的な人を裁いていないでしょうか?もしそうなら、その思い込みこそが、私達の「偶像」でもあるのです。まずは赦すことからはじめましょう。それが真の礼拝者への道です。

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。(マルコ12章30節)

ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。
霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。(Ⅰコリント14:15)