金曜日, 10月 06, 2006

御言葉に聞く

【ショートメッセージ】
第11日目「礼拝にて御言葉を聞く」
よく「よい説教を聞いた」という言葉を聞きます。確かに説教で恵まれるのは、良いことです。でも「よい説教」って何だろうと考えたことがありますか。そもそも説教とは何なのでしょう?なぜ説教を聞かなければいけないのでしょう?説教の聞き方ってあるのでしょうか?そんなことを考えてみたいと思います。

良い説教とは「御言葉に基づいた説教」です。どんなに面白く、感情にグッと迫る話をしても、心に「御言葉」が残らなければ意味がありません。御言葉こそ、私達のいのち、力です。良い説教とは、この「御言葉の深い意味が分かり、心に残る説教」なのです。牧師はそのために召されたのですから、怠けず、自分の悟りを捨て、謙遜に聖書を調べ、よく祈り、最低20時間は準備し講壇に立つのです。

また良い説教とは「十字架の福音に根ざした説教」です。それは一年中、受難週のような「十字架」の聖書箇所から語るという意味ではありません。聖書は、約2千ページに渡り色々なことが書いてあるのですから、説教の内容も色々です。しかし、聖書のどこから語るとしても、その説教は「十字架の愛と恵みに根ざしているべき」なのです。人は愛によって変えられ、少しずつ成長していくのです。

その上で「悔い改めの実を結ぶ」のが良い説教です。聖書には「厳しすぎる」と思えることも書いてあります。しかし説教者は、それを避けて通るのではなく、愛の心から、まっすぐ語る必要があるのです。その時、奇跡が起きます。ペテロの説教の後、人々は「私たちはどうしたらよいのか」と悔い改めへと導かれました。同様に、今日でも聖書がまっすぐ語られるとき、私達の心が揺さぶられるのです。

最後に、良い説教とは「希望を与える説教」です聖書には「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」とあります。今日どれほど多くの人々が、この「道の光」を見失い、闇の中をさまよっていることでしょうか。主の御言葉は、そういった人々に光を投げかけ、人生の目的と、生きる意味を回復させるのです。まずは礼拝に来てもらう、そして聞いてもらう、それが始まりです。

もちろん牧師は完璧ではありません。まずい説教もあるでしょう。時には牧師につまずきを覚えることもあるかもしれません。◆しかしそれでも私たちが、あの少年サムエルのように「お話しください。しもべは聞いております」と謙遜に御前に出続けるなら、御言葉の戸が開き、主ご自身が豊かに語ってくださるのです。◆あなたは毎週、御言葉に期待し、礼拝に集っていますか?主は期待する人に語ってくださいます。そして主は期待する人に、御業を行ってくださるのです。

そのように、信仰は聞くことから始まり、
聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)

そのうちに主が来られ、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。
サムエルは「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。(Ⅰサム3:10)