火曜日, 7月 03, 2007

「目的のために生きるとは」

【ショートメッセージ】
第40日目 「目的のために生きるとは」


私達は教会に与えられた、最も大切な命令「大宣教命令」について学んできましたが、この命令には、全てのクリスチャンと教会に与えられた「三つの使命」(目的)が含まれていることを前回学びました。それが「福音宣教」「教会形成」「弟子訓練」です。そしてそれをもっと細かく分類していくと、まさしく私たちが今まで40日かけて学んできた「5つの目的」に見事に一致することが分かります。

具体的に見ていきましょう。◆まず「②交わり」は「教会形成」のことです。私達は、一方的な恵みによって救われ、バプテスマを受け、神の家族の一員とされました。そしてそこで愛の交わりを経験します。◆また「③聖め」と「④奉仕」は「弟子訓練」のことです。私達は自己中心を捨て、与えられた賜物を、神と教会とのために用いていく時に、単なるお客さんではなく、主の弟子として成長していくのです。

いうまでもなく「⑤宣教」は「福音宣教」のことです。私たちは力と賜物に応じて、世界宣教に参加し、時が良くても悪くても証することを期待されています。◆そして最後に「①礼拝」は、それら全ての要素を含む「至高の目的」なのです!礼拝で語られる御言葉は、教会をバランスよく成長させ、未信者を救い、クリスチャンを内から聖めます。どうですか?あなたはこの5つのバランスが取れていましたか?

学ぶだけでは意味がありません。どんなに立派なダイエット器具を購入しても、使わなければただのガラクタです。同様に「人生の目的」も、せっかく40回に分けて学んでも、実行しなければムダな知識にすぎません。◆私達は忘れっぼく、何でも「先延ばし」にしてしまいがちです。だからこそ、学んだことを何度も反復し、自分に不足しているところを発見したら、すぐにそれを補いたいものです。

最終回なので厳しく言います。クリスチャンとして、いつまでも乳飲み子のままであってはいけません。信仰義認、神様の愛と憐れみ、それらは出発点です。確かにキリスト者としての歩みは、そこから始まり、御国に行くときまで、いや御国に行ってからも、その恵みの中に存在し、生かされています。◆しかしこの地上での生涯を、死に至るまで勇敢に走りぬき、忠実なしもべとしていのちの冠を得るためには「自分のからだを打ちたたいて」主に従わせることも大切なのです。

更に、主の目的のためには、あなたのイサクを捧げなければいけません。あなたが一番大切にしているものは何ですか?それが、あなたにとってのイサクです。あなたはそれを、神様に捧げることが出来ますか?◆イサクの場合、間一髪のところで助けられましたが、現実には、そうでないこともあるのです。それでも、あなたは、アドナイ・イルエ、「あなたは私の人生に、最善を用意してくださいました」と告白し、なおも神様を心から礼拝することが出来るでしょうか?◆極論ですが、神様の目的を第一として生きるということは、そういうことなのです。

「あなたの子…、イサクをわたしにささげなさい。」(創世記22章2節)

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
(マタイ6章33節)

「信仰のバランスをとる」

【ショートメッセージ】
第39日目 「信仰のバランスをとる」


私達は今「大宣教命令」について学んでいますが、この命令がまず教会に、そして、そこに属するクリスチャンにも、与えられていることは既に学びました。でも本当に、この大宣教命令のスピリットは、キリストのからだ全体に、そして信徒一人一人に浸透しているでしょうか?もう一度、根本的に検証してみましょう。

大宣教命令は、大きく三つの内容に分けることが出来ます。第一に「福音宣教」についてです。読んで字のごとく、実に力強く、全世界に出て行って、福音を宣べ伝え、ひとりでも多くの魂を滅びから救い出しなさいと命じられています。◆また第二に「教会形成」です。このことは見落とされがちですが、救われた者にバプテスマを授け、キリストの体の一員(教会員)としなさいと言われています。◆そして第三に「弟子訓練」です。教会員を御言葉に基づいて教え、主の十字架をともに担う「弟子」としなさいと言われています。この三つが、教会の使命です。

しかしその三つのバランスがなかなか難しい!ある教会では、一生懸命に学ぶものの、その知識を福音宣教に役立てようとはしません。◆またある超教派団体は「伝道、伝道」と言いますが、実際に救われた人にバプテスマを授け、教会に繋げ、育成していくことをほとんど考えていません。◆またある教会では、洗礼まで一生懸命関わるものの、その後の訓練はおろそかで、いつまでも信徒を子供(お客さん)扱いしてしまいます。それではいつ成熟した「弟子」になるのでしょうか?

牧師の責任は甚大(じんだい)です。牧師が自己流に教会を牧会するなら、その牧師は、その牧会ゆえに裁きを受けるでしょう。牧師の働きは「監督」のようなものです。群れ全体を良く把握し、示された御言葉をまっすぐに語り、愛をもって聖徒たちを整え、個性(賜物)を引き出し、奉仕の働きをさせ、ともにキリストのからだを建て上げていくのです。そうするとき、その群れ全体は「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです(エペソ4:13)」。

でも信徒自身は、どのようにバランスを保つことが出来るのでしょう。まずは自分の群れの指導者が、正しく「教会というノアの箱舟」のかじ取りを出来るよう祈ることです。そして日曜ごとに、期待して礼拝に臨み、その御言葉によって養われることです。◆その上で、信徒同士でもよく分かち合うことです。互いに教え、戒め、賛美するのです。その際、そこにも「大宣教命令」の命が流れていることが大切です。内輪ウケとならず、教会と切り離されておらず、御言葉を中心にしていることが大切です。◆そしてどんな小さな賜物でも教会で活用していくのです。

植物を、着色した水によって水耕栽培すると、どうなるかご存知ですか?その色のついた水は徐々に葉脈をつたっていき、葉っぱにも、花にも、植物全体に浸透していきます。◆同様に教会という木の隅々にまで「大宣教命令スピリット」のバランスのとれた栄養分が流れるなら、何が起こるのでしょうか?信徒に一人一人に、目立たない奉仕に、そしてどんな小さな祈りの輪にも聖霊の命が溢れ、笑顔がこぼれ、教会が四方に向かいグングンと伸びていくのではないでしょうか♪

私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、
教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
(コロサイ1章23節)

「世界宣教に生きる」

【ショートメッセージ】
第38日目 「世界宣教に生きる」


教会で催される「幸せな家庭や人生」というテーマのセミナーには比較的人が集まりますが、「世界宣教」というテーマには人気がなく、なかなか人も集まらないと言われます。また「日本だって大変なのに、なぜわざわざ海外へ…」という疑問もなくなりません。そんな私たちに、聖書は何と言っているでしょうか?

まずリックウォレンは、クリスチャンにも二種類のクリスチャンがあるといいました。一方は「自分の目的のために、神様を利用しようとするクリスチャン」です。彼らは自分と、自分に属する者にしか興味がなく、その他の事柄ためには興味も犠牲もはらいません。しかしもう一方のクリスチャンは「神様の目的のために、自分を使っていただこうとする」のです。神様の目的とは「大宣教命令」のことです!

世界宣教は、バラバラの世界を再び一つします!世界は一度、バベルの塔(人間の罪)によってバラバラになってしまいました。今日も「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる(マタ24:7)」悲しい現実が続いています。もし私たちが、自分さえ、自分の家族さえ、自分の国さえ救われればよいと考えるなら、私たちも形を変えた「バベルの子孫」ではないでしょうか?でもイエス様は、この地に十字架を中心とした、全く新しい国を打ち立てられました。それが「神の国」です。

神の国には「国境」がありません。国境とは、私達の心にある様々な敵対心、党派心、差別、無関心のことです。しかしイエス様の十字架は、その全ての隔ての壁を崩し、「愛」と「聖霊」によって、再び私たちを「一つ」にしてくださいました。もちろん、それはまだ完全ではありません。でも私達はこの地上でも、その「神の国(御国)の前味」を味わうことが出来るのです。それが、本来の教会の姿です!

神の国はイ、エス様の再臨によって完成します。その日、東からも西からも主の民が集められ、御名が誉めたたえられ、悪は滅ぼされ、「神の国(神の正義)」が実現します。その日がいつなのかは誰にも分かりません。ただ一つ言えることは「福音が全世界に宣べ伝えられ、それから来る」ということです。近年の交通手段やインターネットの発達により、そのスピードは驚異的に速まっています!その日の到来を前にして、あなたは心から「マラナタ(主よ、来たりませ)」と言えますか?

実はジレンマがあります。イエス様を愛すればこそ、神の国が完成を待ち望み、福音を述べ伝えるのですが、そうすると「終わりの日(さばき)」も近づいてしまうのです。自分にとって、その日は喜びなのですが、同時に「まだ困る。私の愛する者がまだ救われていません」との痛みも感じているのです。それは、神様と同じ痛みです。神様も、一刻も早くこの世を救いたいと願いながらも、「ひとりでも滅んでしまうこと」には、胸が張り裂けんばかりの痛みを感じているのです。

私たちには二つのことが出来ます。◆一つは、あなたの心の中のバベルの塔を打ち砕き、無関心という「国境」を取り除くことです。自分の家族、国ばかりではなく、世界に目を向けようではありませんか!◆そしてもう一つは、目の前のひとりのために、心を砕いて「とりなす」ことです。この「痛み」と「とりなし」を忘れてしまったら、私達の世界宣教は空しいものになってしまいます。◆目の前のひとりも、地球の裏のひとりも、神様にはかけがえのない「ひとり」です!

神は、実に、
そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

「主の証人になる」

【ショートメッセージ】
第37日目 「主の証人になる」


私達は、私たちに与えられた最高の奉仕「宣教」について学んでいますが、前回は、あの「大宣教命令」が、教会に与えられた「至上命令」であり、そこに属する一人一人の「人生の目的」でもあることを学びました。今回はその続きです。

そもそも「証し」とは、何を語ることなのでしょうか?ある人は「証し」と「説教」を混同していますが、それは間違いです。説教とは主に二つの部分から成っていますが、一つは聖書の「説き明かし」であり、もう一つは日常生活への「適応」です。それを語るためには、やはり神学校などでの特別な学びが必要となるでしょう。しかし証しとは、自分の人生の中で神様がどのように働いてくださったのかを証言することであり、クリスチャンであれば誰でも語ることの出来ることなのです。

代表的なものに「救いの証し」があります。イエス様に出会う前はどんな生活をしていたのか?また、いつ、どのようにイエス様と出会ったのか?そして、どのようにイエス様の十字架と復活を信じるようになり、信じてどう変えられたのか?今は何を人生の目的にして歩んでいるのか?そのような内容について語ることです。その体験談は、特にキリスト教初心者に強いインパクトを持つことでしょう。

その他にも「クリスチャン版失敗学」があります。「失敗学」とは「失敗からも学ぶこと」ですが、クリスチャンの場合、自分の悟りではなく「神様が教えてくださったことを証言」するのです。あなたにも過去において、失敗や試練の中で、悲しくて、苦しくて、神様を見失い、神様に背いてしまった経験がありますか?そして、その中で特に教えられた御言葉や、新しく発見した神様の真理などがありますか?もしあったら、その体験談を、似た境遇にある人々が待っているのです!

証しをする際、気をつけるべきことがあります。それは正直であることです。感動的に語っても、そこに誇張があるなら神様は喜ばれません。証しは「証言」ですから、「偽りの証言をしてはいけない」のです。また、過去の失敗や、背きの罪を「武勇伝」のように語ってはいけません。あくまで「赦された罪人」として、謙遜に語ることです。そして、くどいようですが、単なる身の上話とならないよう、いつも「神様の良くしてくださった事」を、そのまま語ることが出来ますように。

「証し」の機会は突然やってきます、だから普段から「備え」ましょう。その時が来たら、語ってくださるのは聖霊様です。だから恐れることなく、堂々と話したら良いのです。しかしだからと言って「備える」という私達の責任まで放棄されたのではありません。一度あなたの証しを、祈り、御言葉を引用しつつ、文章にまとめてみてはいかがでしょう?そうすることで、あなたの証しには説得力が生まれ、過去の記憶も整理され、いざという時に、確信を持って語ることが出来るのです。

狼少年はいつも嘘ばかりついていたので、いざという時に信用されませんでした。私たちも普段の言動がいい加減なら、いざという時、どんな立派な証しをしても、誰にも聞いてもらえないでしょう。◆パウロは、最後の最後に「私が神に願うことは、みなが私のようになることです」と答えました。きっと普段から、そう言える生活をしていたのでしょう。だから彼の言葉には、わずかな言葉の中にも、人の心を揺さぶる大きな力があったのです。◆私達の普段の生活はどうでしょう?一番大切な「備え」とは、普段から福音にふさわしく生活することなのです。

あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。
そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。(コロサイ4章6節)

「使命の為に造られた」

【ショートメッセージ】
 第36日目 「使命の為に造られた」


「人生を導く五つの目的」も、いよいよ最後の目的となりました。それは「宣教」です。この世の仕事であれば、いずれ退職もあるでしょう。しかし、この霊的な奉仕には退職がないのです。なぜなら宣教とは、クリスチャンの人生そのものであり、生活の一部だからです。この最高の奉仕について一緒に学びましょう。

ある人々は「大宣教命令」を聞いて戸惑いを覚えます。なぜなら、自分は誰かにバプテスマ(洗礼)を施すことはないし、海外に行って御言葉を宣べ伝えることもない。そういうことは牧師や宣教師のすることではないか?自分は、十字架によって救われ、教会に通い、御言葉を聞ければそれで満足。そもそも、この大宣教命令は、主の弟子(使徒)たちに語られているのではないか、と考えてしまうのです。

しかし、そうではありません。イエス様が天に帰られるとき、イエス様はご自分の、霊的なからだ、すなわち「教会」を地上に残されました。そして天から聖霊を遣わし、今もその働きを支え続けておられるのです。つまり「大宣教命令」とは、この「教会に与えられた至上命令」なのです。教会に属する全てのクリスチャンは、福音を宣べ伝え、この教会の一員として海外宣教を支える責務があります。

パウロはそのことをよく理解していました。彼はこの宣教を「返さなければいけない負債」とか「強いられたにしても、ゆだねられた務め」と表現しました。もちろん彼は、嫌々ながらではなく、使命感に溢れ、時が良くても悪くても福音を宣べ伝えたことでしょう。しかし宣教とは、たとえ「したくなくても」、尊い血潮によって贖われたものとして、「当然神様に返すべき負債」のようなものなのです。

その際、気をつけるべきことがあります。宣教というと、何が何でも「宣べ伝えること」ばかりが強調されますが、「どのように」「誰に」と考えることも大切なことです。聖書にも「豚に真珠を与えるな」とありますが、キリスト教に偏見を持ち、敵意をむき出しにする人々に不用意に語るなら、無益な議論や、争いなどが生じ、全然益にならないばかりか、かえって災いを招いてしまうことだってあるのです。

時には「聞く宣教」「無言の宣教」も有益です。もちろん時をとらえて大胆に語ることは大切です。しかし語りつつ、その人の心をよく「耕す」ことも忘れてはいけません。これには時間がかかりますし、忍耐も必要です。でも遠回りが、実は近道ということだってあります。相手の言葉によく耳を傾け、普段から無言の立ち振る舞いのうちに愛を実践するなら、その人の心は少しずつ耕されていくのです。

伝道と宣教は違います!「伝道」は言葉によることが大きいのですが、「宣教」は、その言葉(福音)を伝えるための、すべての働きを含みます。つまりドルカスの様に「裁縫」をもって宣教を支えることだって出来るのです。◆大宣教命令が「教会」に与えられた命令なら、あなたも、その中で出来る働きがきっとあるはずです。あなたはどのようにして、この「大宣教命令」に従うことがありますか?

「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」 (マコ16章15節)

私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、
教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
(コロサイ1章25節)

「弱さの内に働かれる神」

【ショートメッセージ】
第35日目 「弱さの内に働かれる神」


ここ数回「しもべ」として生きるとはどういうことなのかを学んできました。でも、その「しもべ」を選ばれたのは誰でしょうか?もちろん主人です。この世の主人であれば、なるべく優秀な人材を集めるでしょう。しかし私達の主人(神様)の基準は違っていて、なるべく「愚か」で「弱さ」を持った者を選ばれるのです。

でも「弱さ」ってなんでしょうか。ある人は「弱さを誇る」との言葉を履き違え「弱いままでいいんだ。このままでいいんだ」と自分を甘やかし、更に自分を弱くしてしまうのです。聖書が言うところの「弱さ」とは、自分で願っても、努力しても、どうしても変えられない「現実」のことです。パウロも肉体のとげが取り除かれるように何度も祈りましたが、結果的に取り除かれませんでした。まずは祈り、「心の一新によって自分を変え(ロマ12:2)」ようとすることも大切なのです。

また「誇る」とは「開き直ること」ではありません。聖書は確かに「弱さを誇る」とか「愚かな者を選ばれた」とありますが、それはその愚かさが素晴らしかったからではなく、ただ一方的な恵みによって選ばれたにすぎないのです。なのにある人は自分の「弱さ・愚かさ」を正当化し、上から、この世の知者や強者を非難し始めるのです。その時、私達は「本当の愚か者」となってしまいうでしょう。この言葉は、こんな私さえも選ばれた「一方的の愛」に感謝し、へりくだるためなのです。

では健全な意味で「弱さを誇る」とはどういう意味なのでしょう。それは「弱さ」そのものではなく、その弱さを通しても、ご自身の栄光を現してくださる「神様を誇る」ということなのです。聖書には「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」とありますが、誤解を恐れずに言うなら「自分の弱さ」さえも誇ってはいけないのです!ただ十字架に架かられ、よみがえられたイエス・キリストのみを見上げ、この方を、おのれの誇りとしたいものです。

そして「弱さ」とは、そのために与えられているのです。ある人々は、様々な鎧(よろい)を着こみ「強いふり」をしているかもしれません。自分でも「これで安心だ」と思っているのかもしれません。しかし自分でもどうしようもない「試練」や「とげ」に遭遇し、全ての鎧ははがされ、はだかにされ、何にも頼れず、惨めな自分を発見しても、そんな自分を正直に認め、そのままの姿で、イエス様の十字架に立ち返ることのできる人は幸いなのです。そういう人が、本当に強い人なのです。

あなたの「弱さ」は何ですか?そしてあなたは、その「弱さ」を通しても、神の栄光が現れることを信じていますか?◆まずは鎧を脱ぎ、全てのいいわけ、見栄、プライドを捨てようではありませんか。そういったものが、主の栄光を閉じ込めてしまうのです。◆自分の弱さを認め、イエス様の十字架のみを誇りとして生きていくとき、その「弱さ」が「強さ」に「痛み」が「希望」に変えられるのです!

しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。
私は告白します。「あなたこそ私の神です。」 詩篇31編14節

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に
誇りとするものが決してあってはなりません。(ガラテヤ6章14節)

「しもべとして生きる(下)」

【ショートメッセージ】
第34日目 「しもべとして生きる(下)」


奉仕において大切なのは「心」です。聖書には「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。(箴言16:2)」とあります。ユダのアマツヤ王は「主の目にかなうことを行なったが、全き心をもってではなかった。(Ⅱ歴代誌25:2)」ともあります。私達の奉仕はどうでしょうか?私たちの奉仕(行い)は、純粋な動機から生まれているでしょうか?

不純な動機とは、奉仕を「神様との取引の道具」だと考えることです。例えば、ある人はこのように祈ります。「神様、もしあなたが私を祝福し、この祈りをかなえてくだされば、私はもっとあなたのために奉仕し、もっと献げます」と。またある人はこう祈ります。「神様なぜでしょうか?私はあなたのためにこんなに奉仕し、こんなに献げたのに、あなたはちっとも祝福してくださいません」と。何かがおかしいですね。どうして神様が、その取引に応じなければいけないのでしょう?

またある人は、奉仕を「自己実現の道具」に使います。熱心に奉仕する姿を通して、周りの人々から好かれ、立派だと認められ、自分の人生に充実感が欲しいと思うのです。しかし実際の奉仕はとても地道なものですから、少しやってみて、その充実感が得られず、誰も自分の奉仕に注目してくれないと、ひどくガッカリし、やる気を失ってしまうのです。ともすれば周りの人々を無関心だと責め、かえって教会を混乱させてしまいます。いったい誰のための奉仕だったのでしょうか?

全てが間違っているのではありません。確かに神様は、私達の奉仕を喜び、祝福してくださることもあります。しかしそれは「結果」であって、「目的」ではないのです。この両者を履き違えてはいけません。人からの賞賛も同じです。兄弟姉妹の労は、もっと積極的にねぎらってもよいでしょう。しかし聖書には「あなたは施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい(マタイ6:3)」とありますから、奉仕する本人はそれを当然の権利を考えてはいけないのです。ましてや「誰からも感謝されない」と不満に思うのは見当違いです。

そもそも奉仕は、誰のためなのでしょうか?もちろん神様のためです。でも多くの人は「自分の祝福」や「自己実現」という「自分の目的」のために、神様を利用しようとしているのです。それは奉仕ではありません。奉仕とは、神様の目的のために、自分を使っていただくことなのです。私達は、主のしもべです。しもべが、主人のために何かをしても、「当然のことをしたまで」なのです。「自分の権利」を主張せず、自分を「無」にし、純粋な、心からの奉仕を捧げたいものです。

純粋な動機で主に仕えるとき、しもべ同士の関係も良くなります。自分の権利を主張し、主人の様になろうとするから、裁き合いやイガミ合いが生まれるのです。◆しかし私達はしもべに過ぎません。皆が同じ主人を見上げ、同じ主人に仕えているのです。そしてその一番低いところには、イエス様の十字架があるのです。

それで、主であり師であるこのわたしが、
あなたがたの足を洗ったのですから、
あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
(ヨハネ4章14節)

「しもべとして生きる(上)」

【ショートメッセージ】
第33日目 「しもべとして生きる(上)」

私達の身の回りには「サービス」があふれています。どのお店でも、少しでも良いサービスを提供し、顧客を獲得しようとしのぎを削っています。特に日本のサービス業は、世界でもトップクラスだと言われますが、そんな社会で生活していると、ついついサービスを「受ける」ことが当然の権利であるかの様に思ってしまうのです。でも私達は「神と人とに仕えて生きることも」忘れてはいけません。

チャーチ(教会)ショッピングという言葉があります。「この教会では、どんなサービス(プログラムやイベント、クラス)を提供していますか?」「私の家族に、何か良いサービスがありますか?」と教会を渡り歩くことです。主にアメリカでのことですが、その姿がまるでサービスの良い、お店を探す姿に似ているので「チャーチ・ショッピング」という名前がつきました。誰にとっても、仕えられることは気持ちの良いものです。少しでも安くて、良いサービスが魅力的なのです。

でもサービスは本来「捧げるもの」です。面白いことに英語では、「礼拝」のことを「サービス」と言います。また「奉仕する」を「サーブ」といいます。つまりサービスとは、被造物であり、「主のしもべ(サーバント)」である私たちが、神様に心をこめて「捧げるもの」なのです。受けることばかりを期待するのは、健全な信仰ではありません。私達は、クリスチャンとなり、キリストのからだ(教会)の一部となった瞬間から、「礼拝」と「奉仕」を捧げる者とされているのです。

では良いしもべとは、どういう人のことなのでしょうか?まずは少年サムエルが「しもべは聞いております」と言ったように、いつでもどこでも、主の呼びかけに応えられる心の準備をしている人のことです。また百人隊長のように、「行け」と言われれば即座に出て行き、「これをせよ」と言われれば、先延ばしにもせず、すぐに実行できる人のことです。つまりは、自分の主人が誰であるかを自覚し、その方の権威に服従し、徹底的に「従順」であることが求められているのです。

私達はどうでしょう?御言葉の内に、主の御声を聞いて、それに従っているでしょうか?間違った、この世の主人に従ってはいないでしょうか。人の言葉や評価が、あなたの主人となってはいないでしょうか。自分の気持ちや都合が、あなたの主人となってはいないでしょうか?どうか間違ったものの奴隷となってしまわないように!あなたは「神の友」であり「しもべ」です!!!神の国とその義とを第一に求め、心のこもった「礼拝」と「奉仕」を捧げることが出来ますように。

イエス様が、私達のことを「神の友」とも読んでくださることは慰めです。単なるしもべであれば、それこそ雇われ根性で、主人に仕えてしまうかもしれません。しかしイエス様は、私達を「友」と呼び、十字架にかかるほど愛していてくださったのです。◆この愛を知っているから、私達は「いやいやながらではなく、強いられてでもなく」心から喜んで、この方にお仕えすることが出来るのです。

人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、
キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ないなさい。
このような人が、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。
(エペソ6章6-7節、ローマ14章18節 要約)

月曜日, 3月 19, 2007

与えられているものを活用する

【ショートメッセージ】
第32日目「与えられているものを活用する」

私達は「奉仕」について学んでおりますが、今日は「タラントのたとえ」から教えられたいと思います。タラントは、英語「タレント(能力のある人)」の語源ともなっています。その価値は、1タラント=6000デナリ(日当)≒6000万円とかなりの金額です。ここから、何を学ぶことが出来るのでしょうか?

まずは、誰でも能力に応じて賜物を任されている、ということです。一タラントと聞くと「少ないな」と感じる人がいるかもしれません。でも決してそんなことはありません。1タラントだって6000万円、かなりの金額です。確かに人によって、任されるタラント(賜物)の量は違います。しかし大切なのは「量の多少ではなく、すでに与えられたものを、どう用いるか」なのです。誰も0タラントの者はいませんでした。誰もがもうすでに、思う以上に、多くを任されているのです。

では、一タラント預かった者の間違いは、何だったのでしょか。それは彼が、預かったものを全く活用せず、ただ土を掘って埋めておいたことです。なぜ彼は、そんなことをしたのでしょうか?もしかしたら、自分のタラントが他の人よりも少なかったので、へそを曲げたのでしょうか?それとも主人のことを、必要以上に恐ろしいと勘違いしていたからでしょうか?その両方かもしれません。しかし致命的だったのは、彼が、「主人の心(目的)」を全く理解していなかったことです。

主人は、何のために、大切な財産を、しもべに預けたのでしょう。もし保管しておくだけだったら、金庫に入れたり、銀行に預ければよかったでしょう。でも主人は、それを敢えて、間違いを犯すかもしれない「不完全なしもべ」に任せたのです。それはしもべが、主人の心を理解し、期待に応え、その財産(タラント)を立派に増やすためだったのです。もしそうだとすれば、努力した結果、目に見える実を結べなかったとしても、主人は「その努力」を喜んでくれたに違いありません。

私達はどうでしょう?自分のためではなく、神様の心を理解し、その期待に応え、神と人とのために、自分のタラント(賜物)を活用しているでしょうか?「自分の賜物が分からない」と言われる方がいるかもしれません。もしそうならなお更、自分の賜物を活用してください。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、何もしなければ、いつまで経っても自分の賜物を知ることは出来ないのです。私達は自分自身を、神と人とのために使ってみて、改めて自分の賜物を知るのです。

リック・ウォレンは「賜物は筋肉に似ている」と言いました。筋肉は、何歳になっても、使えば増えるそうです。でも何もしないで、寝てばかいりいると、だんだんとしぼんでしまうのです。◆賜物も同じです。使っていると更に豊かに与えられるのです。でも「そんな賜物は私にはありません」と最初から決め付け、何もしなければ、本当に何もなくなってしまうのです。だからぜひ新しい奉仕にもチャレンジしてみてください。神と人とのために、自分を活用してください!!

あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
その実が残るためなのです。
(マタイ25章16節)

火曜日, 3月 13, 2007

自分の経験をもって主に仕える

【ショートメッセージ】
第31日目「自分の経験をもって主に仕える」


「神と人とに仕えて生きる」と題し学んでいますが、今日は私達の「経験」が、どのように奉仕に生かされるか、をともに学びたいと思います。全ての人の「指紋」が違っているように、私たちが人生に残してきた「あしあと」も違っています。日本では、人と違っていることは恥ずかしいことだと思われがちですが、神様は、あなたの経験を、神と人とのために役立てたいと願っておられるのです。

聖書の原則は「苦しみを通った人が、同じ苦しみの中にある人を助けられる」です。イエス様はペテロにおっしゃられました。「もしあなたが立ち直ったら(同じ弱さを持っている)兄弟たちを力づけてやりなさい」と。そしてその通りペテロは、初代教会において、愛と哀れみをもって、信仰的に若い、多くの兄弟姉妹を励ましたのです。イエス様も同じです。イエス様は地上において、あらゆる苦しみを経験されたので、あらゆる苦しみの中にいる人々を救うことが出来になるのです。

ただし誰も一人では「完璧な苦労」を経験することは出来ないのです。牧師は聖書を専門的に学び、全体的な視点から、福音を語ることが出来ます。しかしそれだけでは物足りないと感じる人がいても仕方がないのです。だからこそ信徒の「証し」が大切なのです。障害をもったお母さんの気持ちは、同じ立場のお母さんが一番よく分かるでしょう。離婚を経験された家庭の苦労は、同じ立場の方が一番よく分かるのです。そうした交わりの中で、信仰に深い理解が与えられていくのです。

ただし経験には「落とし穴」もあります。聖書には「知識は人を高ぶらせる」とありますが「経験によっても」人は高ぶってしまうのです。「私はこんな経験をしたのに、あなた方はしていないでしょう。だから分かるはずがないのです」と、無意識に裁いてしまうのです。また、似たような経験をしていると、「あなたも私と同じ気持に違いない」と勝手に決め付け、かえって相手を傷つけてしまうことだってあるのです。自分の経験を誇ったり、安易に頼ったりしてはいけないのです。

私達は、パウロの「ちりあくた」の姿勢に学びたいものです。パウロほど色々な経験をした人はいません。救われる前に受けた学問教育が、思いがけず福音宣教に役立ちました。それでも彼は、その家柄や教養を「ちりあくた」だと呼んでいます。また伝道のために世界中を旅し、あらゆる困難と迫害を経験しましたが、その苦労話でさえ「武勇伝」とはせず、自分の「弱さと十字架のみ」を誇りました。そのような謙遜さがあったからこそ、彼の「経験」は、神様に用いられたのです。

ステンドグラスを思い出してください。色々な「かたち」と「色」のガラス片があります。どれか一つが欠けても、目立ちすぎても「絵」になりません。全てが調和するとき、美しい「作品」となるのです。◆経験も似ています。目立つ経験も、目立たない経験もあるでしょう。しかし皆が一つ心となり、十字架のもとに自分の経験を持ち寄り、「主よ用いてください」と捧げるなら、そこに「イエス様のからだ」が浮かび上がってくるのです。それこそ神の作品「教会」なのです。

しかし私には、
私たちの主イエス・キリストの十字架以外に
誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、
私も世界に対して十字架につけられたのです。
(ガラテヤ6章14節)

火曜日, 2月 27, 2007

賜物をもって神と人とに仕える

【ショートメッセージ】
第30日目 「賜物をもって神と人とに仕える」

私達は「奉仕」について引き続き学びます。前回は、奉仕の基礎は「キリストへの愛」だと学びました。自分の幸福ばかりを求めていても、幸福にはなりませんし、嫌々ながら奉仕に打ち込んでも、楽しくないばかりか、神にも人にも喜ばれないのです。ではいったい、どのような心で奉仕をしたらよいのでしょうか?

賜物にふさわしく奉仕をしなさい。聖書には「からだ(教会)全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、成長し、愛のうちに建てられる(エペソ4:16)」とあります。つまり人には、神様から与えられた「賜物」と「力量」があるのだから、それを発見し、自分の力量をわきまえ、神と人とのために用いることが大切だということです。そうする時、キリストのからだは力強く成長し、そこに集う一人一人は、本当の意味での「幸福感」と「充実感」を味わうのです。

しかしなかなかそうはいきません。リックウォレンは、ありがちな二つのケースを取り上げています。一つは自分を卑下し、賜物を地面に埋め、そのまま台無しにしてしまうケースです。そういう人は、賜物の豊かな人を見ては、うらやましく思い、ますます落ち込んでしまうのです。もう一つのケースは、人と比べ、自分の賜物を誇り、自分の「やり方」こそ霊的であると信じ、押し付け、ついて来れない人を裁いてしまうケースです。どうして、そうなってしまうのでしょうか?

もしかしたら不安なのかもしれません。神様は「もう既に」「溢れるほど」与えてくださっているのに、それが信じられないから、人と比べ、時には非難し、安心したいのかもしれません。でも人と比べ始めたとたん、私たちは更に不安になってしまうのです。とかく「隣の芝生は青く」見えるものです。人と比べても何にもなりません。「既に」与えられていると信じ、謙遜に用いることが大切なのです。

でもどうしたら「その賜物」を見つけられるのでしょう?黒澤明監督は言いました。「とにかく好きなことを見つけなさい。無心になって打ち込める何かを見つけなさい。それが将来、君たちの立派な仕事となるでしょう」と。クリスチャンの奉仕も似ています。「奉仕」とは、したくもないことを、嫌々するものではありません。まずは自分の好きなことを見つけ、それを神と人の役にたつように磨くのです。そして賜物に相応しく、喜び、感謝をもって奉仕をするのです。そうすれば他人の評価も気にならなくなるでしょう。だって自分が楽しんでいるのですから♪

ペテロをはじめ多くの弟子達は漁師でした。しかし漁が「そのまま」彼らの奉仕になったのではありません。彼らは一度、網をはじめ「全て」を捨て、イエス様について行きました。その結果彼らは「人間をとる漁師」とされたのです。◆私たちも同じです。得意なことを、ただ気ままにしていれば良いのではありません。一度はそれを主に捧げ、あるべき優先順位の中で、主を第一について行くのです。その時、単なる興味と得意分野が「聖められた霊的な賜物(奉仕)」となるのです。


イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。
あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨てて従った。
(マタイ4章19-20節)

ここに少年が
大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。
イエスは…彼らにほしいだけ分けられた。
すると、人々が食べたうえ、
なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
(ヨハネ6章9-13節)

水曜日, 2月 14, 2007

本当の奉仕とは

【ショートメッセージ】
第29日目「本当の奉仕とは?」

今日から新しい学びが始まります。それは、5つの目的その4「奉仕:神と人とに仕えて生きる」についての学びです。教会では、よく「奉仕」といわれますが、どうして奉仕がそんなに大切なのでしょうか?そもそも「奉仕」とは何なのでしょうか?そんなことについて、7回に分けて、少しずつ学んでいきましょう!

世の中は空前の「自己啓発ブーム」です。本屋をのぞけば「自分がどうしたら豊かに生きられるか」「影響力のある人間になれるか」「金持ちになれるか」といった自己啓発の本がびっしり並んでいます。他にも「健康ブーム」だったり、「スピリチュアルブーム」だったり色々ありますが、結局は同じことです。人は、手を変え、品を変え、昔も今も、結局は「自分」にばかり関心を向けているのです。

クリスチャンはどうでしょうか。世の中の影響が多少なりともあるのではないでしょうか?「クリスチャンの幸せ」「賜物」「豊かさ」というセミナーはたくさんあります。そういう働きも大切です。でもそれだけでは「自己啓発」と変わらないのではないでしょうか?私達は「自分以外の人々」にも関心を持っているでしょうか?学んだことや聞いたことを、他の人々のためにも活かしているでしょうか?

聖書は厳しく「自分だけ幸せになりたい教」を戒めています。イエス様は「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」と言われました。金持ちの例えはもっと明らかです。金儲けがいけないのではありません。ただ多く与えられた者は、神と人のためにそれを用いることを求められているのです。それを悟らず、自分のためだけにそれを蓄えようとした金持ちは、結果的に「いのち」を失ってしまいました。

しかし「自分を粗末にしても」いけないのです。もしあなたが、嫌々ながら、無理やり、神と人とに仕えているのなら、知らない間に、人にも同じことを強要し、自分よりも幸せで自由な人を妬む「パリサイ的クリスチャン」になってしまうでしょう。「自分だけ」はいけませんが、「自分も幸せ」になることは、私たちが思う以上に大切なことです。そのためにも「健全な意味での自己投資」が必要となります。

健全な意味での自己投資とは何でしょうか?それは、十字架に根ざし、神の愛をしっかりと心に蓄えることです。聖書にはこうあります。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立ちません。(Ⅰコリント13:3)」◆自分が祝福されるためではなく、救われるためでもありません。ただイエス様の愛に感動し、その一方的な愛に押し出されたから、兄弟のために生きるのです。この「愛の基礎」から生まれるものが「本当の奉仕」であり、天に宝を積む「良い行い」なのです。

キリストは、私たちのために、
ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは、兄弟のために、
いのちを捨てるべきです。
(Ⅰヨハネ3章16節)

時間がかかる

【ショートメッセージ】
第28日目 「時間がかかる」

今回も含め7回「聖め:神のかたちの回復、自己中心からの解放」と題して学んできましたが、今日で最終回になります。前回は「聖化への近道はなく、誘惑に打ち勝つテクニックもない。まずはイエス様の十字架の恵みに立ち返るべきだ」とお話しました。その上で、今回はもう少し具体的に、お話したいと思います。

聖められるためには、砕かれなくてはなりません。聖書には、神様が陶器師で、私たちは粘土であると書かれています。しかし長年の間に、私達は勝手なものを色々とくっつけてしまっているのです。ちょっとしたものなら、神様はパキンと割って取り除いてくださるでしょう。しかしあまりにもひどい場合、神様は元の「神のかたち」を回復するため、それを粉々にし、造り直さなければいけないのです。

それには痛みをともないます。だから私達は「轆轤(ろくろ)」から飛び出します。でもそこに本質的な解決はありません。逃げ回れば、逃げ回るほど、問題も大きくなり、私たち追いかけて来ます。そして段々と誤魔化せなくなり、いたる所に「歪(ひずみ)」が生じてくるのです。それでも「まだ大丈夫」「もうちょっと」「これくらい…」と言い訳を続けるのが私です。だから時間がかかるのです。

時には負け癖がついていることもあるでしょう。もう何年間も負け続けているので「今さら…」と自分で決め付けているのです。でも遅すぎることはありません!聖書には「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません(ヤコ1:22)」とあります。どんな小さなことでも、示されたらすぐ実行するのです。最初はすごくエネルギーが要るかもしれませんが、その繰り返しが、新しい習慣を生み、新しい習慣が「聖い品性」を形作るのです。

人からのサポートも不可欠です何度も言うように私達は弱いのです。特に人が一人でいるのは良くありません。信頼できる、できれば同性のクリスチャン・パートナーを見つけ、折に触れ一緒に祈ることは大切です。往々にして、私達のプライドや、隠された罪責感が、私達の「負け癖」を深刻化させているのです。神様と、人とに心を大きく開くとき、そこに聖霊の風が吹き込み、心を癒すのです。

あきらめてはいけません。むしろ、最初から時間がかかるものだと思いましょう。10年かけて身につけた癖なら、最低でもその半分5年はかかると思いましょう。もしかしたら、その完成は、御国においてかもしれません。◆テレビの「あるある」や「ダイエット広告」のように、耳あたりの良い「手っ取り早い方法」に騙されてはいけません。心の体質改善にも、地道な努力と忍耐が必要なのです。

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、
キリスト・イエスの日が来るまでに
それを完成させてくださることを
私は堅く信じているのです。(ピリピ1章6節)

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、
何一つ欠けたところのない、
成長を遂げた、完全な者となります。
(ヤコブ1章4節)

火曜日, 2月 06, 2007

誘惑によって造りかえられる②

【ショートメッセージ】
第27日目「誘惑によって造り変えられる②」
前回も「誘惑」について題し学びました。その中で私達は「欲」そのものは罪ではないが、それに「囚われ」、それを神様よりも大事な「偶像」にしてしまうことが問題で、それを「不正な手段」により満たすことが「罪」であると学びました。今日はその学びの後編です。一体どうしたら誘惑に勝利できるのでしょうか…。

ローマ人への手紙7章で、パウロが「律法的な生き方」をしていたとき、すなわち自分の力で、神の基準に到達しようとしていたとき、彼は自分が「したいと思うことすら出来ない、本当にみじめな人間であること」を発見しました。そのことは私たちも経験済みでしょう。人間的な努力や「すがるな、さわるな」といった禁欲主義は、結局のところ、一時的な自己満足はあっても、生まれ持った「欲」に対しては何の力もないのです。

しかしパウロは、続くローマ8章で一転しています。彼は「これら全ての中にあっても、私達は圧倒的な勝利者です」と宣言しているのです。一体何があったのでしょうか?一つ言えることは、「彼が肉的なことを考えるのを止め、御霊に属することをもっぱら考えるようになった」ということです。言い方を変えれば、パウロは肉の欲に対しては、闘う前に、考えること自体を止めてしまったと言うことです。

多くの誤解があります。「神様この誘惑に勝利させてください」と熱心に祈っても、それに勝利することはできません。なぜならその人は、あまりにも「その誘惑に」集中しているからです。目の前にニンジンをつるしておけば、それが欲しくなるでしょう。食べてしまうのは時間の問題です。ダイエットに失敗する人、禁酒禁煙に失敗する人も似ています。止めたいと言いながら、頭の中でそのことばかりを考えているので、それを止めることは出来ないのです。

まず、そのことについて考えるのを止めなさい一人でいる時はなお更です。誘惑の原因となるものからは、物理的にも遠ざかりましょう。売り場にも近づかないことです。規則正しい生活をし、仕事に打ち込み、そのことばかりを考えない環境をつくることも大切です。怠惰は、敗北への道です。

しかしここに来て私達はまた振り出しに戻ります。「考えないようにする」というのは、結局「すがるな、さわるな」という律法主義の延長なのではないかと…。それだけでは、やはり根本的な解決はないのです。「考えるな」と言われても考えてしまい、「止めろ」と言われても止められないのです。そんな自分にガッカリし愛想が尽きるころ、イエス様の愛がふとせまってきます。「イエス様はそんな私のために、十字架に架かってくださった…!そして今も父なる神の右におられ、こんな私のためにとりなしていて下さる!」と。

このことを知れば知るほど。その愛の大きさに圧倒され、「すがるな、さわるな」「肉に属することを考えるな」と禁じられなくても、イエス様のことで頭がいっぱいになって、悲しまれることをしたくなくなるのです。◆これが、パウロが経験した、律法主義に優る「自発的な愛」です。誘惑に打ち勝つ、テクニックなんてもともとありません。本当の愛を知るとき、人は自ら変わろうとするのです。つづく・・・。

死んでくださった方、
いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちは、私たちを愛してくださった方によって
圧倒的な勝利者となるのです。
ローマ8章34、37節

水曜日, 1月 24, 2007

誘惑によって造りかえられる

【ショートメッセージ】
第26日目「誘惑によって造り変えられる①」

今回のテーマは「誘惑」です。誘惑は前回もお話した通り、試練とは違い、私たちを神様から引き離そうとする、肉やサタンからの攻撃です。しかし、この誘惑でさえ、私たちがどのように対処するかによっては、神の栄光のために用いられるのです。2回にわたり「誘惑によって造りかえられる」と題し学びましょう。

まず確認しておかなければならないのは、「欲」そのものは罪ではないということです。代表的なものに「性欲」「金銭欲」「名誉欲」などがありますが、それらでさえも正当な方法、つまり結婚とか地道な労働によって満たされるのなら「良いもの」なのです。ただ、それ自体が神様よりも大切な偶像になってしまったり(コロ3:5)、聖書の基準から逸脱した手段によって満たそうとするときに罪となるのです。

たとえ罪ではなくても、放っておくと「罪」を生みます。イエス様は「情欲を抱いて女を見る者は」と言われました。この「情欲」と「欲」とは違います。異性を見て「素敵だなぁ」と思うことはごく自然なことで、罪悪感を覚える必要はありません。しかしその相手によって自分の欲を満たしたいと妄想することは「情欲」であり、実行することにより「罪」となるのです。ダビデは妄想し、行動に移しました。エバもおいしそうな木の実を凝視し、味を妄想し、誘惑に負けてしまったのです。

小さな誘惑であれば自分の意志でも何とかなるかもしれません。でもそうできないときもあるのです。一度、自分の心の大部分を占めてしまったものは、なかなか脳裏から離れず「すがるな、さわるな」と禁じられれば禁じられるほど、衝動は強くなってしまうのです。異性、金、権力の他にも、酒、暴飲暴食、衝動買い、借金、噂話、インターネット、自己憐憫など中毒性のあるものは何でも同じことです。自力で闘おうとすればするほど、コントロールできない、惨めな自分を発見するのです。

もっと深刻なのは、心のどこかで、そんな自分を許してしまうときです。私達は驚くほど自分には寛容です。「止めたい」と思っていても、心のどこかでは「実はこのままでもいいや」「もうちょっと楽しみたい」「まだ大丈夫だろう」と言い訳し、なかなかその誘惑から離れようとしないのです。クリスチャンなら「イエス様はきっと赦してくれる」と、最初から高をくくってしまうこともあるのです。

またイエス様も、そんな人を放っておかれることがあります。そして「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み」始めるのです。時には、健康を損なったり、職を失ったり、家庭が壊れてしまうときもあります。でもそこでようやく私たちは自分の愚かさに気づき、真剣に「変わりたい」と願い始めるのです。それは苦しい体験ですが、悔い改めによって、信仰の「人生第2ラウンド」が始まるのです。

ルターは、こう言いました。「誘惑を受けたことが、私にとっての神学教育でした」と。誰でも誘惑されます。口にはしなくても、同じようなことを経験しているのです。しかしそこから何を学ぶかは、人によって違います。主にある人は、誘惑にあっても、そこから金よりも貴い「教訓」と「知恵」を学び、栄光方栄光へ、勝利の人生を歩むことができるのです。詳しくは次回に続く・・・。

訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。 箴言8書33節

月曜日, 1月 15, 2007

試練によって造り変えられる

【ショートメッセージ】 第25日目「試練によって造り変えられる」
今回のテーマは「試練」ですが、主の祈りにもあるように、できれば試練は会いたくないものです。また「なぜ試練があるか」なんて、本来、神様の領域に関わることなので安易に説明しないほうが良いとも思います。一歩間違えばヨブの友人になってしまいます。でも今回はあえて、その難題に取り組みたいと思います。

よく「試練」と「誘惑」を混同している人がいますが、この両者は全くの別物です。「誘惑」とは私たちを神様から引き離そうとする、肉やサタンの攻撃なのですが、「試練」とは、私たちを神様に近づける聖霊の導きなのです。きっと多くの人が「試練」の中で、神様を近くに感じるのもそのためです。「誘惑」からは身を避け、場合によっては闘わなければなりません。しかし「試練」からは逃げず、信仰をもって受け止め、その先にある希望を見つめることが大切なのです。

試練によって、私達は忍耐を学びます。現代人は、何にでもスピードを求め、まるで時間さえも支配する神の様にふるまっています。しかし大きな試練に会うとき、私達は今更ながら、自分が全く無力な「被造物」にすぎないことに気づくのです。そして、ひたすら「神の時(解決)」を待つのです。それは実にもどかしいことなのですが、その中で私達は、人としての「謙遜さ」と「忍耐」を学ぶのです。

また、試練は私たちを練り聖めます。聖書には「霊の父は、聖さにあずからせるために、愛する子を懲らしめられる(ヘブ12:10)」とあります。この「聖さ」とは「練られた品性」ともいいます。もし神様を恨み、もがき苦しめば、その人からは、いじけた雰囲気や、怒りしか生まれません。しかし神の愛を信じ、信仰を持ってその試練を乗り越えた人からは「かぐわしいキリストの香り」が漂うのです。

最後に試練は私達の心を呼び覚まします。いくら大丈夫だと思っていても、私達の心は、放っておくと次第に「脂肪のように鈍感(詩篇119:70)」になり、地上における「半径1メートルの幸せ」しか考えられなくなってしまうのです。そこで神様は、その人に期待すればこそ「試練」を与え、「この世では寄留者に過ぎないこと」と、「永遠のいのちへの希望(ロマ5:5)」を、新たにされるのです。

刺繍を思い出してください。裏から見ても、糸が複雑に絡み合っていて決して美しいとはいえません。でも表から見れば、美しい一つの模様になっているのです。◆試練もそれに似ています。私たちの目には決して喜ばしいものではありませんが、信仰により神様の視点から見つめなおす時、そこにも「愛」の一文字が浮かび上がってくるのです。◆この信仰の目を失ってしまうとき、私達は「試練」と「誘惑」の区別がつかなくなってしまいます。そしてある者は、神を恨み、信仰から脱落してしまうのです。でも最後まで神の愛を信じ、耐え抜いて良しと認められた人には「いのちの冠」が待っているのです。その時、全ての疑問は解決され、心からハレルヤと賛美できるのです。

神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
ローマ8章28節