火曜日, 2月 06, 2007

誘惑によって造りかえられる②

【ショートメッセージ】
第27日目「誘惑によって造り変えられる②」
前回も「誘惑」について題し学びました。その中で私達は「欲」そのものは罪ではないが、それに「囚われ」、それを神様よりも大事な「偶像」にしてしまうことが問題で、それを「不正な手段」により満たすことが「罪」であると学びました。今日はその学びの後編です。一体どうしたら誘惑に勝利できるのでしょうか…。

ローマ人への手紙7章で、パウロが「律法的な生き方」をしていたとき、すなわち自分の力で、神の基準に到達しようとしていたとき、彼は自分が「したいと思うことすら出来ない、本当にみじめな人間であること」を発見しました。そのことは私たちも経験済みでしょう。人間的な努力や「すがるな、さわるな」といった禁欲主義は、結局のところ、一時的な自己満足はあっても、生まれ持った「欲」に対しては何の力もないのです。

しかしパウロは、続くローマ8章で一転しています。彼は「これら全ての中にあっても、私達は圧倒的な勝利者です」と宣言しているのです。一体何があったのでしょうか?一つ言えることは、「彼が肉的なことを考えるのを止め、御霊に属することをもっぱら考えるようになった」ということです。言い方を変えれば、パウロは肉の欲に対しては、闘う前に、考えること自体を止めてしまったと言うことです。

多くの誤解があります。「神様この誘惑に勝利させてください」と熱心に祈っても、それに勝利することはできません。なぜならその人は、あまりにも「その誘惑に」集中しているからです。目の前にニンジンをつるしておけば、それが欲しくなるでしょう。食べてしまうのは時間の問題です。ダイエットに失敗する人、禁酒禁煙に失敗する人も似ています。止めたいと言いながら、頭の中でそのことばかりを考えているので、それを止めることは出来ないのです。

まず、そのことについて考えるのを止めなさい一人でいる時はなお更です。誘惑の原因となるものからは、物理的にも遠ざかりましょう。売り場にも近づかないことです。規則正しい生活をし、仕事に打ち込み、そのことばかりを考えない環境をつくることも大切です。怠惰は、敗北への道です。

しかしここに来て私達はまた振り出しに戻ります。「考えないようにする」というのは、結局「すがるな、さわるな」という律法主義の延長なのではないかと…。それだけでは、やはり根本的な解決はないのです。「考えるな」と言われても考えてしまい、「止めろ」と言われても止められないのです。そんな自分にガッカリし愛想が尽きるころ、イエス様の愛がふとせまってきます。「イエス様はそんな私のために、十字架に架かってくださった…!そして今も父なる神の右におられ、こんな私のためにとりなしていて下さる!」と。

このことを知れば知るほど。その愛の大きさに圧倒され、「すがるな、さわるな」「肉に属することを考えるな」と禁じられなくても、イエス様のことで頭がいっぱいになって、悲しまれることをしたくなくなるのです。◆これが、パウロが経験した、律法主義に優る「自発的な愛」です。誘惑に打ち勝つ、テクニックなんてもともとありません。本当の愛を知るとき、人は自ら変わろうとするのです。つづく・・・。

死んでくださった方、
いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちは、私たちを愛してくださった方によって
圧倒的な勝利者となるのです。
ローマ8章34、37節