木曜日, 11月 16, 2006

壊れた交わりを回復する

【ショートメッセージ】
第20日目「壊れた交わりを回復する」

前回、私たちは「交わりが壊れるとき」について学びました。それは想像するだけでも、心が痛む、悲しい交わりの姿でした。しかし今回は、一度壊れてしまった交わりが「回復するため」に必要なことは何かを、ともに学びたいと思います。

まず私たちは「平和とは何か」を知らなければなりません。聖書に「平和をつくる者は幸いである」とあるように、平和とは本来一人一人が努力して「築いていくもの」です。決して自然に「平和」が生まれるのでも、何も問題がない状態が「平和」なのでもありません。たとえ問題が起こり、交わりが壊れてしまっても、私たちはその中から「キリストにある真の平和」をつくることができるのです。

そしてその平和は、私達の心から生まれるのです。平和は待っていても、あちらから歩いては来ません。ましてや自分で復讐しようとしたり、相手を自分の思い通りに変えようとするなら、ますます遠ざかって行ってしまうのです。まずは自分が変わる事です。たとえ相手が悪くても、一方的に恨まれているときにでも、「申し訳ありませんでした」と、こちら側から和解を申し出ることが聖書的な方法なのです。その際、相手がそれを受け入れなくても、逆ギレしてはいけません。

しかし「裁かない」ということは、目をつむることではありません。兄弟姉妹の罪や争いを見ても、気付かない振りをするのは、愛ではなく「無関心」です。パウロは教会に対し「あなたがたの中には、争いを仲裁することのできるような賢い者が一人もいないのですか」と嘆いています。そして積極的に「和解の務めを担い」「互いの重荷を負い合い」「他人ことも顧みる」よう、勧めているのです。

でもその際は、言い方が大切です。どんなに正しいことを言っても、「言い方」が適切でなければ、相手の怒りに油を注ぐだけです。箴言には「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす(15:1)」とあります。決して、ミイラ取りがミイラになり、一緒に憤慨したり、問題を更に複雑にしてしまうようなことがありませんように。具体的な方法については、次回お話します。

どうでしょうか?今日は一度壊れてしまった交わりが回復するために、何が必要なのかを学びました。この「和解の務め」を他人任せにしてはいけません。一人びとりが「平和をつくっていく」ことが大切なのです。◆でも一番大切なのは、和解のテクニックではなく、一人びとりが「しっかりとイエス様に繋がっていくこと」です。イエス様こそ私たちの「平和」であり、全ての敵意は十字架によって葬り去られたのです。ただそのことゆえに、私たちは「神の家族」なのです。

キリストこそ私たちの平和であり、
二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわします。
敵意は十字架によって葬り去られました。
あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、

神の家族なのです。
エペソ2章14-19節(抜粋)