火曜日, 7月 03, 2007

「信仰のバランスをとる」

【ショートメッセージ】
第39日目 「信仰のバランスをとる」


私達は今「大宣教命令」について学んでいますが、この命令がまず教会に、そして、そこに属するクリスチャンにも、与えられていることは既に学びました。でも本当に、この大宣教命令のスピリットは、キリストのからだ全体に、そして信徒一人一人に浸透しているでしょうか?もう一度、根本的に検証してみましょう。

大宣教命令は、大きく三つの内容に分けることが出来ます。第一に「福音宣教」についてです。読んで字のごとく、実に力強く、全世界に出て行って、福音を宣べ伝え、ひとりでも多くの魂を滅びから救い出しなさいと命じられています。◆また第二に「教会形成」です。このことは見落とされがちですが、救われた者にバプテスマを授け、キリストの体の一員(教会員)としなさいと言われています。◆そして第三に「弟子訓練」です。教会員を御言葉に基づいて教え、主の十字架をともに担う「弟子」としなさいと言われています。この三つが、教会の使命です。

しかしその三つのバランスがなかなか難しい!ある教会では、一生懸命に学ぶものの、その知識を福音宣教に役立てようとはしません。◆またある超教派団体は「伝道、伝道」と言いますが、実際に救われた人にバプテスマを授け、教会に繋げ、育成していくことをほとんど考えていません。◆またある教会では、洗礼まで一生懸命関わるものの、その後の訓練はおろそかで、いつまでも信徒を子供(お客さん)扱いしてしまいます。それではいつ成熟した「弟子」になるのでしょうか?

牧師の責任は甚大(じんだい)です。牧師が自己流に教会を牧会するなら、その牧師は、その牧会ゆえに裁きを受けるでしょう。牧師の働きは「監督」のようなものです。群れ全体を良く把握し、示された御言葉をまっすぐに語り、愛をもって聖徒たちを整え、個性(賜物)を引き出し、奉仕の働きをさせ、ともにキリストのからだを建て上げていくのです。そうするとき、その群れ全体は「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです(エペソ4:13)」。

でも信徒自身は、どのようにバランスを保つことが出来るのでしょう。まずは自分の群れの指導者が、正しく「教会というノアの箱舟」のかじ取りを出来るよう祈ることです。そして日曜ごとに、期待して礼拝に臨み、その御言葉によって養われることです。◆その上で、信徒同士でもよく分かち合うことです。互いに教え、戒め、賛美するのです。その際、そこにも「大宣教命令」の命が流れていることが大切です。内輪ウケとならず、教会と切り離されておらず、御言葉を中心にしていることが大切です。◆そしてどんな小さな賜物でも教会で活用していくのです。

植物を、着色した水によって水耕栽培すると、どうなるかご存知ですか?その色のついた水は徐々に葉脈をつたっていき、葉っぱにも、花にも、植物全体に浸透していきます。◆同様に教会という木の隅々にまで「大宣教命令スピリット」のバランスのとれた栄養分が流れるなら、何が起こるのでしょうか?信徒に一人一人に、目立たない奉仕に、そしてどんな小さな祈りの輪にも聖霊の命が溢れ、笑顔がこぼれ、教会が四方に向かいグングンと伸びていくのではないでしょうか♪

私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、
教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。
(コロサイ1章23節)