金曜日, 10月 06, 2006

礼拝の本質

【ショートメッセージ】 第10日目「礼拝の本質」
以前、礼拝の本質とは「自分自身を捧げることです」とお話したことがあります。しかし礼拝には、その他にもいくつかの大切な要素が含まれています。全てを一度に学ぶのは難しいですが、少しずつ大切なことから、学んでいきましょう!!

まず礼拝の本質とは「御前にひれ伏す」ことです。それは日本語の漢字の意味と同じですね。礼拝とは、神様の御前に出て「深く礼をし、心から拝すること」なのです。この礼拝行為は、どの民族にも共通して存在します。しかし多くの人々は、その対象を間違え、偶像や人、権力やお金を拝んでいるのです。この世の中にあって、私たちが、真の神様と出会い、礼拝できるとは、何という幸いでしょうか。

また礼拝とは「砕かれた魂をたずさえて」御前に出ることです。昔の人々は、いけにえをたずさえて、神様の御前に出ました。でも神様が一番喜ばれるいけにえは「砕かれたたましい」なのです。聖書には「神へのいけにえは砕かれた魂。砕かれた悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」とあります。モーセやイザヤも、この砕かれた魂をたずさえ、主を恐れ、謙遜に御前に出ました。

その上で、「心を注ぎ出して祈る」ことも大切です。その祈りの模範はハンナです。彼女は、エリが酔っていると勘違いするほど、熱心に祈っていました。彼女は言いました「私は酔っているのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです」と。またゲッセマネの園でイエス様は、もだえつつ、十字架の恐怖を正直に告白されました。しかしその祈りは「御心のままに…」と結ばれていたのです。

心を注ぎだしてはじめて、私達は自分の問題を「ゆだねる」ことが出来るのです聖書にはこうあります。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです(Ⅰペテ5:7)」。これこそ主の御前に、心砕かれ、ひれ伏し、降参した者のみが感じることの出来る「シャローム(平安)」なのです。この平安を、私達も、礼拝において、経験できるのです。

どうでしょうか?私達の「礼拝」は御心にかなったものでしょうか?その証拠に、約束の「平安」をいただいているでしょうか?◆神様を恐れ、御前にひれ伏しているでしょうか?不遜な態度・服装にはなっていませんか?◆イエス様やハンナのように、心を全て注ぎだしているでしょうか?それとも告白できない何かを隠してはいませんか?◆全てをゆだねているでしょうか?自分で握り締めてはいませんか? ◆イエス様は死に至るまで「まことの礼拝者」でした。私たちも、自分のすべて、霊までも、御手にゆだねるような真の礼拝者となりたいものです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、
霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4章24節)

イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」
こう言って、息を引き取られた。(ルカ23章46節)