火曜日, 7月 03, 2007

「主の証人になる」

【ショートメッセージ】
第37日目 「主の証人になる」


私達は、私たちに与えられた最高の奉仕「宣教」について学んでいますが、前回は、あの「大宣教命令」が、教会に与えられた「至上命令」であり、そこに属する一人一人の「人生の目的」でもあることを学びました。今回はその続きです。

そもそも「証し」とは、何を語ることなのでしょうか?ある人は「証し」と「説教」を混同していますが、それは間違いです。説教とは主に二つの部分から成っていますが、一つは聖書の「説き明かし」であり、もう一つは日常生活への「適応」です。それを語るためには、やはり神学校などでの特別な学びが必要となるでしょう。しかし証しとは、自分の人生の中で神様がどのように働いてくださったのかを証言することであり、クリスチャンであれば誰でも語ることの出来ることなのです。

代表的なものに「救いの証し」があります。イエス様に出会う前はどんな生活をしていたのか?また、いつ、どのようにイエス様と出会ったのか?そして、どのようにイエス様の十字架と復活を信じるようになり、信じてどう変えられたのか?今は何を人生の目的にして歩んでいるのか?そのような内容について語ることです。その体験談は、特にキリスト教初心者に強いインパクトを持つことでしょう。

その他にも「クリスチャン版失敗学」があります。「失敗学」とは「失敗からも学ぶこと」ですが、クリスチャンの場合、自分の悟りではなく「神様が教えてくださったことを証言」するのです。あなたにも過去において、失敗や試練の中で、悲しくて、苦しくて、神様を見失い、神様に背いてしまった経験がありますか?そして、その中で特に教えられた御言葉や、新しく発見した神様の真理などがありますか?もしあったら、その体験談を、似た境遇にある人々が待っているのです!

証しをする際、気をつけるべきことがあります。それは正直であることです。感動的に語っても、そこに誇張があるなら神様は喜ばれません。証しは「証言」ですから、「偽りの証言をしてはいけない」のです。また、過去の失敗や、背きの罪を「武勇伝」のように語ってはいけません。あくまで「赦された罪人」として、謙遜に語ることです。そして、くどいようですが、単なる身の上話とならないよう、いつも「神様の良くしてくださった事」を、そのまま語ることが出来ますように。

「証し」の機会は突然やってきます、だから普段から「備え」ましょう。その時が来たら、語ってくださるのは聖霊様です。だから恐れることなく、堂々と話したら良いのです。しかしだからと言って「備える」という私達の責任まで放棄されたのではありません。一度あなたの証しを、祈り、御言葉を引用しつつ、文章にまとめてみてはいかがでしょう?そうすることで、あなたの証しには説得力が生まれ、過去の記憶も整理され、いざという時に、確信を持って語ることが出来るのです。

狼少年はいつも嘘ばかりついていたので、いざという時に信用されませんでした。私たちも普段の言動がいい加減なら、いざという時、どんな立派な証しをしても、誰にも聞いてもらえないでしょう。◆パウロは、最後の最後に「私が神に願うことは、みなが私のようになることです」と答えました。きっと普段から、そう言える生活をしていたのでしょう。だから彼の言葉には、わずかな言葉の中にも、人の心を揺さぶる大きな力があったのです。◆私達の普段の生活はどうでしょう?一番大切な「備え」とは、普段から福音にふさわしく生活することなのです。

あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。
そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。(コロサイ4章6節)