金曜日, 10月 06, 2006

神を遠くに感じるとき

【ショートメッセージ】
第14日目「神様を遠くに感じるとき」

クリスチャンになりたてのころ、実は自己中心な祈りであったのに、それがかなえられたという経験を持つ人は少なくありません。しかし神様は、私達が、真の礼拝者としての、成長することを願われているので、時に御顔を隠されるのです。

主を遠くに感じる時、まずその原因を探る必要があります。以前にも引用しましたが、神様を遠くに感じるとき、私たちの側の「咎(とが)」が原因である場合があります(イザヤ59:2)。その時は、すぐにでも、その咎を取り除かなければなりません。さもなければ、次第に心はマヒし、ついには神様を求める心まで失われてしまうことがあります。そうなる前に、悔い改め、臨在を取り戻す必要があります。

しかし、いつでも罪が原因であるとも限りません。そもそも何にでも理由を求め、納得しようとするのは人間の側の傲慢ではないでしょうか?主は創造主であり、私たちは被造物です。分からないことがあって当然なのです。大切なのは、たとえ分からなくても、ヨブのごとく「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と心からの礼拝を捧げることなのです。それこそ「究極の礼拝」です。

また礼拝するときは、感覚だけに頼ってはいけません。私たちは弱いので、ヨブの十分の一の苦しみを味わうだけで、心が押しつぶされ、主の臨在を感じられなくなってしまうかもしれません。しかしそうであっても、私たちは壁に向かって礼拝しているわけではなく、そこにも主の臨在は溢れているのです。たとえ自分の気持ちがついていかなくても、そこに主を認め、心からの礼拝を捧げたいものです。

そして最後に大切なのは、神様の愛を信じることです。神様の愛を信じられないとき、私たちは「見捨てられた」と感じます。しかし私たちがそう感じても、神様は、私たちを愛するからこそ、時に試練を用意し、今しばらくの間、御顔を隠されているのです。そしてその先には「平安」と「希望」が待っているのです。それを信じるからこそ、私たちは試練の中でも、賛美を捧げることができるのです。

どうでしょうか?私たちの礼拝は「気分によらない、信仰に基づいた礼拝」となっているでしょうか?主の愛を疑わず、見捨てられたと思うときにも、心からの礼拝を捧げているでしょうか?◆その最高の模範は、イエス様です。イエス様は十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と祈られました。しかしその苦しみの中でも、最後まで父なる神に従い、愛と信仰を全うされたのです。◆あなたが見捨てられたと思うとき、このイエス様を思い出してください。イエス様はあなたの苦しみを全部知っておられます。そして、今も生きて、父なる神様の右に座して、あなたのために祈っておられるのです。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。
なぜ、御前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
私の救い、私の神を。(詩篇42:11)