金曜日, 10月 06, 2006

主の御顔が輝くとき

【ショートメッセージ】
第9日目「主の御顔が私に向かって輝くとき」

前回のところで、私たちは「主を喜ぶことと、主に喜ばれることは、表裏一体である」と学びました。つまり、礼拝において主を喜ぶことと、日常において両親を敬ったり、弱い者を助けたりすることは、同じことなのですよ、と学んだのです。◇そして今回は、その続きです。聖書には、何度も「御顔の光を、照り輝かせてください!」という表現が登場しますが、一体、主は、いつ、どんなときに、私たちを喜び、御顔の光を照り輝かせ、満面の笑みで、微笑みかけてくださるのでしょうか?その事を、ノアの信仰より、ともに教えられたいと思います。

まずノアは「いつも主と共に歩んで」いました。でも「主と共に歩む」とはどういうことなのでしょう?ミカ書にはこうあります。「それはただ公義を行ない誠実を愛しへりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」と。つまり、義を追い求めながらも、誠実かつ謙遜に歩むことなのです。時代は言い訳にはなりません。どんな時代においても、主と共に歩む者を、主は喜んでくださるのです。

またノアは、とことん主に従う「従順な心」を持っていました。その時まで、主が言われるような大雨や洪水を経験した者は一人もいませんでした。そもそも、おびただしい動物を一組ずつどうやって集めるというのでしょう!?でも彼は、たとえ頭では理解できなくても、そのまま信じて従ったのです。しかも彼は主の言われる通り、一寸の狂いもなく箱舟を仕上げました。これが主に喜ばれる信仰なのです。

更にノアは「礼拝(感謝の心)」を大切にしていました。十人のらい病人の話のように、苦しいときに主にすがりつく人はたくさんいます。でも祈りが聞かれ、試練が過ぎ去った時、感謝を捧げるために戻ってくる人がどれだけいるのでしょうか?ノアの素晴らしさは、洪水から救われた時、真っ先に祭壇を築き、主に感謝のいけにえを捧げたことです。私達の祈りは、お願いばかりになっていないでしょうか。

最後に大切なのは、ありふれた日常においても、主に従うことです。さばきが過ぎ去った時、主はまず「生めよ、増えよ、地を満たせ(9:1)」と命じられました。再び、嫁いだり娶ったり、子を育てたりという、ありふれた日常がやってきたのです。信仰とは必ずしもドラマチックなものではありません。ありふれた日常の中で主に従うことも、大切な信仰生活の一部であることを忘れてはいけないのです。

どうでしょうか?あなたは、どんなときにも主を見上げ、いつも主と共に歩んでいるでしょうか?◆祈ったり、聖書を読んだりする中で、主の御声を聞き、その声に従っているでしょうか?◆そして苦しいときだけではなく、その試練が過ぎ去ったときにも、感謝のいけにえをたずさえ、主を礼拝しているでしょうか?◆主が求めておられるのは、私たち人間と、心と心がふれあう交流なのです。そして心が通じあう瞬間、満面の笑顔と共に、御顔の光が輝くのです。^^)/

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。(民数記6章25節)
そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。(エペソ5章10節)