火曜日, 7月 03, 2007

「弱さの内に働かれる神」

【ショートメッセージ】
第35日目 「弱さの内に働かれる神」


ここ数回「しもべ」として生きるとはどういうことなのかを学んできました。でも、その「しもべ」を選ばれたのは誰でしょうか?もちろん主人です。この世の主人であれば、なるべく優秀な人材を集めるでしょう。しかし私達の主人(神様)の基準は違っていて、なるべく「愚か」で「弱さ」を持った者を選ばれるのです。

でも「弱さ」ってなんでしょうか。ある人は「弱さを誇る」との言葉を履き違え「弱いままでいいんだ。このままでいいんだ」と自分を甘やかし、更に自分を弱くしてしまうのです。聖書が言うところの「弱さ」とは、自分で願っても、努力しても、どうしても変えられない「現実」のことです。パウロも肉体のとげが取り除かれるように何度も祈りましたが、結果的に取り除かれませんでした。まずは祈り、「心の一新によって自分を変え(ロマ12:2)」ようとすることも大切なのです。

また「誇る」とは「開き直ること」ではありません。聖書は確かに「弱さを誇る」とか「愚かな者を選ばれた」とありますが、それはその愚かさが素晴らしかったからではなく、ただ一方的な恵みによって選ばれたにすぎないのです。なのにある人は自分の「弱さ・愚かさ」を正当化し、上から、この世の知者や強者を非難し始めるのです。その時、私達は「本当の愚か者」となってしまいうでしょう。この言葉は、こんな私さえも選ばれた「一方的の愛」に感謝し、へりくだるためなのです。

では健全な意味で「弱さを誇る」とはどういう意味なのでしょう。それは「弱さ」そのものではなく、その弱さを通しても、ご自身の栄光を現してくださる「神様を誇る」ということなのです。聖書には「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」とありますが、誤解を恐れずに言うなら「自分の弱さ」さえも誇ってはいけないのです!ただ十字架に架かられ、よみがえられたイエス・キリストのみを見上げ、この方を、おのれの誇りとしたいものです。

そして「弱さ」とは、そのために与えられているのです。ある人々は、様々な鎧(よろい)を着こみ「強いふり」をしているかもしれません。自分でも「これで安心だ」と思っているのかもしれません。しかし自分でもどうしようもない「試練」や「とげ」に遭遇し、全ての鎧ははがされ、はだかにされ、何にも頼れず、惨めな自分を発見しても、そんな自分を正直に認め、そのままの姿で、イエス様の十字架に立ち返ることのできる人は幸いなのです。そういう人が、本当に強い人なのです。

あなたの「弱さ」は何ですか?そしてあなたは、その「弱さ」を通しても、神の栄光が現れることを信じていますか?◆まずは鎧を脱ぎ、全てのいいわけ、見栄、プライドを捨てようではありませんか。そういったものが、主の栄光を閉じ込めてしまうのです。◆自分の弱さを認め、イエス様の十字架のみを誇りとして生きていくとき、その「弱さ」が「強さ」に「痛み」が「希望」に変えられるのです!

しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。
私は告白します。「あなたこそ私の神です。」 詩篇31編14節

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に
誇りとするものが決してあってはなりません。(ガラテヤ6章14節)