金曜日, 10月 06, 2006

主の真の友となるために

【ショートメッセージ】
第12日目「主の真の友となるために」

今日どれほど多くの人々が、「親友」と呼べる存在を持っているでしょうか?現代社会では、人間関係までもが「自分にとっての損得(そんとく)」によってはかられ、なかなか真の友情を育みにくい状況にあります。ましてや、目に見えない神様とは、いかにしたら友情を築き、それを深めることができるのでしょうか?

自分から人を遠ざけていては、決して友情を得られません。神様との関係も同じです。聖書に「神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいてくださいます」とありますが、私たちも心を開き、神様に近づかなければ、神様もその人に近づくことは出来ないのです。神様は私たちを愛し、準備し、待っておられます。その愛に気づいて、心に迎え入れることが、神との友情の第一歩なのです。

また次の段階は「与えること」と「共有すること」です。ケチな人は、自ばかりを守り、人のことを考えず、なかなか友情を深められません。でもヨナタンは、ダビデのことを真っ先に考え、彼に良いものを与え、自分のことのように喜び、悲しんだのです。私達はそういった意味で、真の神の友と言えるでしょうか?この方に惜しまず捧げ、御心を喜び、滅びゆく魂のために一緒に胸を痛めているでしょうか。

また友情を深めるためには、率直な対話も不可欠です。聖書には「絶えず祈れ」とありますが、これは目をつむっての祈りのことだけではなく、絶えず祈り心をもって生活することでもあります。感謝や賛美はもちろん、不平不満、疑問、何だっていいのです。全てを打ち明けて、主とともに人生を歩むことが大切なのです。私達の生活には、まだまだ主と切り離された、自己中心な領域がないでしょうか。

神との友情には「従順」が必要ですこれだけは、人間同士の友情と大きく異なっています。人間同士の友情に「上下」はありませんが、神様と私達の間には、創造者と被造物という、明確の違いがあるのです。聖書にはこうあります。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」と。神との友情を育み、親友となるためには、従順が不可欠なのです。

最後に、私達の努力が神様との友情を育てるのではありません。本来、私たちと神様のとの間には、超えることの出来ない仕切り(罪・咎)がありました。でもイエス様が十字架に架かり、命を捨ててくださったので、その仕切りは取り除かれたのです。神殿の幕はその象徴でした。◆その上で、イエス様は全く資格のない私たちを「友」に任命されました。選ばれた私たちに出来ることは、ただ全身全霊でイエス様を愛することだけなのです。この「友情」は一方的に与えられたものです。しかし私たちには、それに相応しくなるよう努力することができます。

ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、
ダビデと契約を結んだ。(Ⅰサムエル18章3節)

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。(マルコ12章30節)