水曜日, 10月 11, 2006

真実な交わり

【ショートメッセージ】 第18日目「真実な交わり」

私たちは「交わり」と聞くと、何をイメージするでしょうか?ある人にとって「交わり」とは、硬いメッセージを聞いた後の、リラックス・タイムのようなものかもしれません。もしそうなら、その人にとっての交わりとは、「軽い日常会話」や「茶菓・食事」もしくは「年代や性別ごとの交流」を意味するでしょう。しかし、聖書が勧めるところの交わりには、もっともっと深い意味があるのです。

教会の「交わり」とこの世のサークルは、根本的に違っています。それは「キリストを中心としている」という点においてです。イエス様はある時こう言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる(マタイ18:20)」と。つまり教会の「交わり」の第一の目的は、自分が楽しむことではなく、中心におられるイエス様の栄光を表すこと(Ⅰコリ10:31)なのです。

そして、この交わりは「聖い交わり」でもあります。世的な交わりには、みだらな冗談や噂話がつきものです。しかし聖書には「みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです(エペ5:4)」とはっきり書かれています。私たちはそのような話題を避けながら「ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与え(4:29)」たいものです。

また、この交わりによって、私たちは「本当の赦し」を体験します。この交わりは、イエス様を中心とした「聖い交わり」です。もし誰かの罪が放置されるなら、イエス様はその中心には居ることはできません。だから罪を犯してしまったら、真っ先に悔い改め、主に祈る必要があります。また、それだけではなく、信頼できる兄姉(当事者)にも、正直に話し、一緒に祈ってもらう必要があるのです。このことはプロテスタント教会において軽視されがちですが、とても大切なことです。クリスチャンの交わりが誰かの赦しを祈るなら、天の父はそれを聞いてくださるのです!

このような「真実な交わり」のためには「正直さ」が必要です。時に、クリスチャンの交わりでさえ「自分がどんなに素晴らしいか」「どんなに伝道しているか」「どんなに聖書のことを知っているか」といった見栄の張り合いになってしまうことがあります。どうしてその様な交わりで自分の本心を打ち明けることができるでしょうか?一人一人が仮面を脱ぎ「正直」になるとき、交わりはグッと深まるのです

正直になることは簡単なようで、とても難しいことです。そのためには、プライドを捨て、謙遜になり、兄弟姉妹に「一緒に祈ってください」とお願いする必要があります。◇イエス様はとても正直でした。ゲッセマネの園で、何と御自分の弟子達にこう言われたのです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」。このように「一緒に祈っていてください」と懇願されたのです。この正直さに見習いたいものです。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、
互いのために祈りなさい。(ヤコブ5章16節)

もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、
天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(マタイ18章19節)