土曜日, 12月 09, 2006

神のかたちを壊すもの

【ショートメッセージ】 第23日目「神のかたちを壊すもの」
前回「聖め」とは「神のかたち」の完全な現れであるイエス様に似た者にされることだと学びました。ではもっと具体的に「神のかたちを回復し」「聖められ」たらどうなるのでしょうか?それを知るために「神のかたち」を失う前の人間と堕落した後の人間の姿を比べ、何を回復するべきなのかを知りたいと思います。

なぜ人間は「神のかたち」を失ったのでしょうか?それは人間の心に「罪」が入ってきたからです。この「罪」とはヘビが言ったように「自分が神のようになる」ことを意味しています。つまり「もう神様なんかいらない」「私は私の思うように生きる」といった具合に神に反抗し、自分が神の座につき、他人と被造物を自分の意のままに操ろうとするのです。この「自己中心な生き方」こそ罪の本質です。

その結果エデンの「平和」は一瞬にして崩れ去りました。それまで人は神様と親しく語り、夫婦の間にも隠し事がなく、自然の恵みを享受できたのに、一瞬にして神様の愛を信じられなくなり、かえって恐れて逃げ、家族さえも信用せず、互いに罪をなすりつけ合うようになったのです。そればかりか、被造物までもが、その悪影響に服してしまいました(ロマ8:20)。罪の破壊力は何と恐ろしいことでしょう。

今なおその影響は続いています。多くの人々が、溢れるほどの自由を手に入れながら、なぜか孤独で、空しく、平安がないのです。世界を見渡し、ニュースをみても「神との平和」「人との平和」「自然との平和」どれもが壊れっぱなしなのです。人は憎しみ合い、自然を破壊(汚染)し、神様に背を向けて生きています。私達クリスチャンはどうでしょう?本当に、この現状に心を痛めているでしょうか?

多くの人々は、この状況を何とか自分の力で解決しようとします。そして外に向かって「平和」を叫ぶのです。しかし平和とは「外」からではなく「内」から回復するものです。環境を変えようとしたり、人を変えようとするのではなく、まず自分がその場にひざまずき、自己中心な生き方を悔い改め、十字架の血潮で洗われた白い衣を着せられ、「本当の平安」をいただくことが平和への第一歩なのです。

聖書には「平和を追い求めなさい」とあるように、失われた平和の回復こそ、人生の大切な目的の一つです。そしてそのためには、まず自己中心の古着を捨て、聖い白い衣を着せられ、「神のかたち」を回復していかなければならないのです。◆そして落ち着いた心で、静かに、「神」と「隣人」と「被造物」を愛していくのです。その生き様が、波紋のように、少しずつ周りの人にも伝染していきますように。それが、遠回りのようでいて、平和(シャローム)の近道なのです。

あなたがたは
古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
その人は「造り主のかたち」に似せられてますます新しくされ
真の知識に至るのです。
コロサイ3章9-10節