月曜日, 3月 19, 2007

与えられているものを活用する

【ショートメッセージ】
第32日目「与えられているものを活用する」

私達は「奉仕」について学んでおりますが、今日は「タラントのたとえ」から教えられたいと思います。タラントは、英語「タレント(能力のある人)」の語源ともなっています。その価値は、1タラント=6000デナリ(日当)≒6000万円とかなりの金額です。ここから、何を学ぶことが出来るのでしょうか?

まずは、誰でも能力に応じて賜物を任されている、ということです。一タラントと聞くと「少ないな」と感じる人がいるかもしれません。でも決してそんなことはありません。1タラントだって6000万円、かなりの金額です。確かに人によって、任されるタラント(賜物)の量は違います。しかし大切なのは「量の多少ではなく、すでに与えられたものを、どう用いるか」なのです。誰も0タラントの者はいませんでした。誰もがもうすでに、思う以上に、多くを任されているのです。

では、一タラント預かった者の間違いは、何だったのでしょか。それは彼が、預かったものを全く活用せず、ただ土を掘って埋めておいたことです。なぜ彼は、そんなことをしたのでしょうか?もしかしたら、自分のタラントが他の人よりも少なかったので、へそを曲げたのでしょうか?それとも主人のことを、必要以上に恐ろしいと勘違いしていたからでしょうか?その両方かもしれません。しかし致命的だったのは、彼が、「主人の心(目的)」を全く理解していなかったことです。

主人は、何のために、大切な財産を、しもべに預けたのでしょう。もし保管しておくだけだったら、金庫に入れたり、銀行に預ければよかったでしょう。でも主人は、それを敢えて、間違いを犯すかもしれない「不完全なしもべ」に任せたのです。それはしもべが、主人の心を理解し、期待に応え、その財産(タラント)を立派に増やすためだったのです。もしそうだとすれば、努力した結果、目に見える実を結べなかったとしても、主人は「その努力」を喜んでくれたに違いありません。

私達はどうでしょう?自分のためではなく、神様の心を理解し、その期待に応え、神と人とのために、自分のタラント(賜物)を活用しているでしょうか?「自分の賜物が分からない」と言われる方がいるかもしれません。もしそうならなお更、自分の賜物を活用してください。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、何もしなければ、いつまで経っても自分の賜物を知ることは出来ないのです。私達は自分自身を、神と人とのために使ってみて、改めて自分の賜物を知るのです。

リック・ウォレンは「賜物は筋肉に似ている」と言いました。筋肉は、何歳になっても、使えば増えるそうです。でも何もしないで、寝てばかいりいると、だんだんとしぼんでしまうのです。◆賜物も同じです。使っていると更に豊かに与えられるのです。でも「そんな賜物は私にはありません」と最初から決め付け、何もしなければ、本当に何もなくなってしまうのです。だからぜひ新しい奉仕にもチャレンジしてみてください。神と人とのために、自分を活用してください!!

あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
その実が残るためなのです。
(マタイ25章16節)

火曜日, 3月 13, 2007

自分の経験をもって主に仕える

【ショートメッセージ】
第31日目「自分の経験をもって主に仕える」


「神と人とに仕えて生きる」と題し学んでいますが、今日は私達の「経験」が、どのように奉仕に生かされるか、をともに学びたいと思います。全ての人の「指紋」が違っているように、私たちが人生に残してきた「あしあと」も違っています。日本では、人と違っていることは恥ずかしいことだと思われがちですが、神様は、あなたの経験を、神と人とのために役立てたいと願っておられるのです。

聖書の原則は「苦しみを通った人が、同じ苦しみの中にある人を助けられる」です。イエス様はペテロにおっしゃられました。「もしあなたが立ち直ったら(同じ弱さを持っている)兄弟たちを力づけてやりなさい」と。そしてその通りペテロは、初代教会において、愛と哀れみをもって、信仰的に若い、多くの兄弟姉妹を励ましたのです。イエス様も同じです。イエス様は地上において、あらゆる苦しみを経験されたので、あらゆる苦しみの中にいる人々を救うことが出来になるのです。

ただし誰も一人では「完璧な苦労」を経験することは出来ないのです。牧師は聖書を専門的に学び、全体的な視点から、福音を語ることが出来ます。しかしそれだけでは物足りないと感じる人がいても仕方がないのです。だからこそ信徒の「証し」が大切なのです。障害をもったお母さんの気持ちは、同じ立場のお母さんが一番よく分かるでしょう。離婚を経験された家庭の苦労は、同じ立場の方が一番よく分かるのです。そうした交わりの中で、信仰に深い理解が与えられていくのです。

ただし経験には「落とし穴」もあります。聖書には「知識は人を高ぶらせる」とありますが「経験によっても」人は高ぶってしまうのです。「私はこんな経験をしたのに、あなた方はしていないでしょう。だから分かるはずがないのです」と、無意識に裁いてしまうのです。また、似たような経験をしていると、「あなたも私と同じ気持に違いない」と勝手に決め付け、かえって相手を傷つけてしまうことだってあるのです。自分の経験を誇ったり、安易に頼ったりしてはいけないのです。

私達は、パウロの「ちりあくた」の姿勢に学びたいものです。パウロほど色々な経験をした人はいません。救われる前に受けた学問教育が、思いがけず福音宣教に役立ちました。それでも彼は、その家柄や教養を「ちりあくた」だと呼んでいます。また伝道のために世界中を旅し、あらゆる困難と迫害を経験しましたが、その苦労話でさえ「武勇伝」とはせず、自分の「弱さと十字架のみ」を誇りました。そのような謙遜さがあったからこそ、彼の「経験」は、神様に用いられたのです。

ステンドグラスを思い出してください。色々な「かたち」と「色」のガラス片があります。どれか一つが欠けても、目立ちすぎても「絵」になりません。全てが調和するとき、美しい「作品」となるのです。◆経験も似ています。目立つ経験も、目立たない経験もあるでしょう。しかし皆が一つ心となり、十字架のもとに自分の経験を持ち寄り、「主よ用いてください」と捧げるなら、そこに「イエス様のからだ」が浮かび上がってくるのです。それこそ神の作品「教会」なのです。

しかし私には、
私たちの主イエス・キリストの十字架以外に
誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、
私も世界に対して十字架につけられたのです。
(ガラテヤ6章14節)

火曜日, 2月 27, 2007

賜物をもって神と人とに仕える

【ショートメッセージ】
第30日目 「賜物をもって神と人とに仕える」

私達は「奉仕」について引き続き学びます。前回は、奉仕の基礎は「キリストへの愛」だと学びました。自分の幸福ばかりを求めていても、幸福にはなりませんし、嫌々ながら奉仕に打ち込んでも、楽しくないばかりか、神にも人にも喜ばれないのです。ではいったい、どのような心で奉仕をしたらよいのでしょうか?

賜物にふさわしく奉仕をしなさい。聖書には「からだ(教会)全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、成長し、愛のうちに建てられる(エペソ4:16)」とあります。つまり人には、神様から与えられた「賜物」と「力量」があるのだから、それを発見し、自分の力量をわきまえ、神と人とのために用いることが大切だということです。そうする時、キリストのからだは力強く成長し、そこに集う一人一人は、本当の意味での「幸福感」と「充実感」を味わうのです。

しかしなかなかそうはいきません。リックウォレンは、ありがちな二つのケースを取り上げています。一つは自分を卑下し、賜物を地面に埋め、そのまま台無しにしてしまうケースです。そういう人は、賜物の豊かな人を見ては、うらやましく思い、ますます落ち込んでしまうのです。もう一つのケースは、人と比べ、自分の賜物を誇り、自分の「やり方」こそ霊的であると信じ、押し付け、ついて来れない人を裁いてしまうケースです。どうして、そうなってしまうのでしょうか?

もしかしたら不安なのかもしれません。神様は「もう既に」「溢れるほど」与えてくださっているのに、それが信じられないから、人と比べ、時には非難し、安心したいのかもしれません。でも人と比べ始めたとたん、私たちは更に不安になってしまうのです。とかく「隣の芝生は青く」見えるものです。人と比べても何にもなりません。「既に」与えられていると信じ、謙遜に用いることが大切なのです。

でもどうしたら「その賜物」を見つけられるのでしょう?黒澤明監督は言いました。「とにかく好きなことを見つけなさい。無心になって打ち込める何かを見つけなさい。それが将来、君たちの立派な仕事となるでしょう」と。クリスチャンの奉仕も似ています。「奉仕」とは、したくもないことを、嫌々するものではありません。まずは自分の好きなことを見つけ、それを神と人の役にたつように磨くのです。そして賜物に相応しく、喜び、感謝をもって奉仕をするのです。そうすれば他人の評価も気にならなくなるでしょう。だって自分が楽しんでいるのですから♪

ペテロをはじめ多くの弟子達は漁師でした。しかし漁が「そのまま」彼らの奉仕になったのではありません。彼らは一度、網をはじめ「全て」を捨て、イエス様について行きました。その結果彼らは「人間をとる漁師」とされたのです。◆私たちも同じです。得意なことを、ただ気ままにしていれば良いのではありません。一度はそれを主に捧げ、あるべき優先順位の中で、主を第一について行くのです。その時、単なる興味と得意分野が「聖められた霊的な賜物(奉仕)」となるのです。


イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。
あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨てて従った。
(マタイ4章19-20節)

ここに少年が
大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。
イエスは…彼らにほしいだけ分けられた。
すると、人々が食べたうえ、
なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
(ヨハネ6章9-13節)

水曜日, 2月 14, 2007

本当の奉仕とは

【ショートメッセージ】
第29日目「本当の奉仕とは?」

今日から新しい学びが始まります。それは、5つの目的その4「奉仕:神と人とに仕えて生きる」についての学びです。教会では、よく「奉仕」といわれますが、どうして奉仕がそんなに大切なのでしょうか?そもそも「奉仕」とは何なのでしょうか?そんなことについて、7回に分けて、少しずつ学んでいきましょう!

世の中は空前の「自己啓発ブーム」です。本屋をのぞけば「自分がどうしたら豊かに生きられるか」「影響力のある人間になれるか」「金持ちになれるか」といった自己啓発の本がびっしり並んでいます。他にも「健康ブーム」だったり、「スピリチュアルブーム」だったり色々ありますが、結局は同じことです。人は、手を変え、品を変え、昔も今も、結局は「自分」にばかり関心を向けているのです。

クリスチャンはどうでしょうか。世の中の影響が多少なりともあるのではないでしょうか?「クリスチャンの幸せ」「賜物」「豊かさ」というセミナーはたくさんあります。そういう働きも大切です。でもそれだけでは「自己啓発」と変わらないのではないでしょうか?私達は「自分以外の人々」にも関心を持っているでしょうか?学んだことや聞いたことを、他の人々のためにも活かしているでしょうか?

聖書は厳しく「自分だけ幸せになりたい教」を戒めています。イエス様は「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」と言われました。金持ちの例えはもっと明らかです。金儲けがいけないのではありません。ただ多く与えられた者は、神と人のためにそれを用いることを求められているのです。それを悟らず、自分のためだけにそれを蓄えようとした金持ちは、結果的に「いのち」を失ってしまいました。

しかし「自分を粗末にしても」いけないのです。もしあなたが、嫌々ながら、無理やり、神と人とに仕えているのなら、知らない間に、人にも同じことを強要し、自分よりも幸せで自由な人を妬む「パリサイ的クリスチャン」になってしまうでしょう。「自分だけ」はいけませんが、「自分も幸せ」になることは、私たちが思う以上に大切なことです。そのためにも「健全な意味での自己投資」が必要となります。

健全な意味での自己投資とは何でしょうか?それは、十字架に根ざし、神の愛をしっかりと心に蓄えることです。聖書にはこうあります。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立ちません。(Ⅰコリント13:3)」◆自分が祝福されるためではなく、救われるためでもありません。ただイエス様の愛に感動し、その一方的な愛に押し出されたから、兄弟のために生きるのです。この「愛の基礎」から生まれるものが「本当の奉仕」であり、天に宝を積む「良い行い」なのです。

キリストは、私たちのために、
ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは、兄弟のために、
いのちを捨てるべきです。
(Ⅰヨハネ3章16節)

時間がかかる

【ショートメッセージ】
第28日目 「時間がかかる」

今回も含め7回「聖め:神のかたちの回復、自己中心からの解放」と題して学んできましたが、今日で最終回になります。前回は「聖化への近道はなく、誘惑に打ち勝つテクニックもない。まずはイエス様の十字架の恵みに立ち返るべきだ」とお話しました。その上で、今回はもう少し具体的に、お話したいと思います。

聖められるためには、砕かれなくてはなりません。聖書には、神様が陶器師で、私たちは粘土であると書かれています。しかし長年の間に、私達は勝手なものを色々とくっつけてしまっているのです。ちょっとしたものなら、神様はパキンと割って取り除いてくださるでしょう。しかしあまりにもひどい場合、神様は元の「神のかたち」を回復するため、それを粉々にし、造り直さなければいけないのです。

それには痛みをともないます。だから私達は「轆轤(ろくろ)」から飛び出します。でもそこに本質的な解決はありません。逃げ回れば、逃げ回るほど、問題も大きくなり、私たち追いかけて来ます。そして段々と誤魔化せなくなり、いたる所に「歪(ひずみ)」が生じてくるのです。それでも「まだ大丈夫」「もうちょっと」「これくらい…」と言い訳を続けるのが私です。だから時間がかかるのです。

時には負け癖がついていることもあるでしょう。もう何年間も負け続けているので「今さら…」と自分で決め付けているのです。でも遅すぎることはありません!聖書には「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません(ヤコ1:22)」とあります。どんな小さなことでも、示されたらすぐ実行するのです。最初はすごくエネルギーが要るかもしれませんが、その繰り返しが、新しい習慣を生み、新しい習慣が「聖い品性」を形作るのです。

人からのサポートも不可欠です何度も言うように私達は弱いのです。特に人が一人でいるのは良くありません。信頼できる、できれば同性のクリスチャン・パートナーを見つけ、折に触れ一緒に祈ることは大切です。往々にして、私達のプライドや、隠された罪責感が、私達の「負け癖」を深刻化させているのです。神様と、人とに心を大きく開くとき、そこに聖霊の風が吹き込み、心を癒すのです。

あきらめてはいけません。むしろ、最初から時間がかかるものだと思いましょう。10年かけて身につけた癖なら、最低でもその半分5年はかかると思いましょう。もしかしたら、その完成は、御国においてかもしれません。◆テレビの「あるある」や「ダイエット広告」のように、耳あたりの良い「手っ取り早い方法」に騙されてはいけません。心の体質改善にも、地道な努力と忍耐が必要なのです。

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、
キリスト・イエスの日が来るまでに
それを完成させてくださることを
私は堅く信じているのです。(ピリピ1章6節)

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、
何一つ欠けたところのない、
成長を遂げた、完全な者となります。
(ヤコブ1章4節)

火曜日, 2月 06, 2007

誘惑によって造りかえられる②

【ショートメッセージ】
第27日目「誘惑によって造り変えられる②」
前回も「誘惑」について題し学びました。その中で私達は「欲」そのものは罪ではないが、それに「囚われ」、それを神様よりも大事な「偶像」にしてしまうことが問題で、それを「不正な手段」により満たすことが「罪」であると学びました。今日はその学びの後編です。一体どうしたら誘惑に勝利できるのでしょうか…。

ローマ人への手紙7章で、パウロが「律法的な生き方」をしていたとき、すなわち自分の力で、神の基準に到達しようとしていたとき、彼は自分が「したいと思うことすら出来ない、本当にみじめな人間であること」を発見しました。そのことは私たちも経験済みでしょう。人間的な努力や「すがるな、さわるな」といった禁欲主義は、結局のところ、一時的な自己満足はあっても、生まれ持った「欲」に対しては何の力もないのです。

しかしパウロは、続くローマ8章で一転しています。彼は「これら全ての中にあっても、私達は圧倒的な勝利者です」と宣言しているのです。一体何があったのでしょうか?一つ言えることは、「彼が肉的なことを考えるのを止め、御霊に属することをもっぱら考えるようになった」ということです。言い方を変えれば、パウロは肉の欲に対しては、闘う前に、考えること自体を止めてしまったと言うことです。

多くの誤解があります。「神様この誘惑に勝利させてください」と熱心に祈っても、それに勝利することはできません。なぜならその人は、あまりにも「その誘惑に」集中しているからです。目の前にニンジンをつるしておけば、それが欲しくなるでしょう。食べてしまうのは時間の問題です。ダイエットに失敗する人、禁酒禁煙に失敗する人も似ています。止めたいと言いながら、頭の中でそのことばかりを考えているので、それを止めることは出来ないのです。

まず、そのことについて考えるのを止めなさい一人でいる時はなお更です。誘惑の原因となるものからは、物理的にも遠ざかりましょう。売り場にも近づかないことです。規則正しい生活をし、仕事に打ち込み、そのことばかりを考えない環境をつくることも大切です。怠惰は、敗北への道です。

しかしここに来て私達はまた振り出しに戻ります。「考えないようにする」というのは、結局「すがるな、さわるな」という律法主義の延長なのではないかと…。それだけでは、やはり根本的な解決はないのです。「考えるな」と言われても考えてしまい、「止めろ」と言われても止められないのです。そんな自分にガッカリし愛想が尽きるころ、イエス様の愛がふとせまってきます。「イエス様はそんな私のために、十字架に架かってくださった…!そして今も父なる神の右におられ、こんな私のためにとりなしていて下さる!」と。

このことを知れば知るほど。その愛の大きさに圧倒され、「すがるな、さわるな」「肉に属することを考えるな」と禁じられなくても、イエス様のことで頭がいっぱいになって、悲しまれることをしたくなくなるのです。◆これが、パウロが経験した、律法主義に優る「自発的な愛」です。誘惑に打ち勝つ、テクニックなんてもともとありません。本当の愛を知るとき、人は自ら変わろうとするのです。つづく・・・。

死んでくださった方、
いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちは、私たちを愛してくださった方によって
圧倒的な勝利者となるのです。
ローマ8章34、37節

水曜日, 1月 24, 2007

誘惑によって造りかえられる

【ショートメッセージ】
第26日目「誘惑によって造り変えられる①」

今回のテーマは「誘惑」です。誘惑は前回もお話した通り、試練とは違い、私たちを神様から引き離そうとする、肉やサタンからの攻撃です。しかし、この誘惑でさえ、私たちがどのように対処するかによっては、神の栄光のために用いられるのです。2回にわたり「誘惑によって造りかえられる」と題し学びましょう。

まず確認しておかなければならないのは、「欲」そのものは罪ではないということです。代表的なものに「性欲」「金銭欲」「名誉欲」などがありますが、それらでさえも正当な方法、つまり結婚とか地道な労働によって満たされるのなら「良いもの」なのです。ただ、それ自体が神様よりも大切な偶像になってしまったり(コロ3:5)、聖書の基準から逸脱した手段によって満たそうとするときに罪となるのです。

たとえ罪ではなくても、放っておくと「罪」を生みます。イエス様は「情欲を抱いて女を見る者は」と言われました。この「情欲」と「欲」とは違います。異性を見て「素敵だなぁ」と思うことはごく自然なことで、罪悪感を覚える必要はありません。しかしその相手によって自分の欲を満たしたいと妄想することは「情欲」であり、実行することにより「罪」となるのです。ダビデは妄想し、行動に移しました。エバもおいしそうな木の実を凝視し、味を妄想し、誘惑に負けてしまったのです。

小さな誘惑であれば自分の意志でも何とかなるかもしれません。でもそうできないときもあるのです。一度、自分の心の大部分を占めてしまったものは、なかなか脳裏から離れず「すがるな、さわるな」と禁じられれば禁じられるほど、衝動は強くなってしまうのです。異性、金、権力の他にも、酒、暴飲暴食、衝動買い、借金、噂話、インターネット、自己憐憫など中毒性のあるものは何でも同じことです。自力で闘おうとすればするほど、コントロールできない、惨めな自分を発見するのです。

もっと深刻なのは、心のどこかで、そんな自分を許してしまうときです。私達は驚くほど自分には寛容です。「止めたい」と思っていても、心のどこかでは「実はこのままでもいいや」「もうちょっと楽しみたい」「まだ大丈夫だろう」と言い訳し、なかなかその誘惑から離れようとしないのです。クリスチャンなら「イエス様はきっと赦してくれる」と、最初から高をくくってしまうこともあるのです。

またイエス様も、そんな人を放っておかれることがあります。そして「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み」始めるのです。時には、健康を損なったり、職を失ったり、家庭が壊れてしまうときもあります。でもそこでようやく私たちは自分の愚かさに気づき、真剣に「変わりたい」と願い始めるのです。それは苦しい体験ですが、悔い改めによって、信仰の「人生第2ラウンド」が始まるのです。

ルターは、こう言いました。「誘惑を受けたことが、私にとっての神学教育でした」と。誰でも誘惑されます。口にはしなくても、同じようなことを経験しているのです。しかしそこから何を学ぶかは、人によって違います。主にある人は、誘惑にあっても、そこから金よりも貴い「教訓」と「知恵」を学び、栄光方栄光へ、勝利の人生を歩むことができるのです。詳しくは次回に続く・・・。

訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。 箴言8書33節

月曜日, 1月 15, 2007

試練によって造り変えられる

【ショートメッセージ】 第25日目「試練によって造り変えられる」
今回のテーマは「試練」ですが、主の祈りにもあるように、できれば試練は会いたくないものです。また「なぜ試練があるか」なんて、本来、神様の領域に関わることなので安易に説明しないほうが良いとも思います。一歩間違えばヨブの友人になってしまいます。でも今回はあえて、その難題に取り組みたいと思います。

よく「試練」と「誘惑」を混同している人がいますが、この両者は全くの別物です。「誘惑」とは私たちを神様から引き離そうとする、肉やサタンの攻撃なのですが、「試練」とは、私たちを神様に近づける聖霊の導きなのです。きっと多くの人が「試練」の中で、神様を近くに感じるのもそのためです。「誘惑」からは身を避け、場合によっては闘わなければなりません。しかし「試練」からは逃げず、信仰をもって受け止め、その先にある希望を見つめることが大切なのです。

試練によって、私達は忍耐を学びます。現代人は、何にでもスピードを求め、まるで時間さえも支配する神の様にふるまっています。しかし大きな試練に会うとき、私達は今更ながら、自分が全く無力な「被造物」にすぎないことに気づくのです。そして、ひたすら「神の時(解決)」を待つのです。それは実にもどかしいことなのですが、その中で私達は、人としての「謙遜さ」と「忍耐」を学ぶのです。

また、試練は私たちを練り聖めます。聖書には「霊の父は、聖さにあずからせるために、愛する子を懲らしめられる(ヘブ12:10)」とあります。この「聖さ」とは「練られた品性」ともいいます。もし神様を恨み、もがき苦しめば、その人からは、いじけた雰囲気や、怒りしか生まれません。しかし神の愛を信じ、信仰を持ってその試練を乗り越えた人からは「かぐわしいキリストの香り」が漂うのです。

最後に試練は私達の心を呼び覚まします。いくら大丈夫だと思っていても、私達の心は、放っておくと次第に「脂肪のように鈍感(詩篇119:70)」になり、地上における「半径1メートルの幸せ」しか考えられなくなってしまうのです。そこで神様は、その人に期待すればこそ「試練」を与え、「この世では寄留者に過ぎないこと」と、「永遠のいのちへの希望(ロマ5:5)」を、新たにされるのです。

刺繍を思い出してください。裏から見ても、糸が複雑に絡み合っていて決して美しいとはいえません。でも表から見れば、美しい一つの模様になっているのです。◆試練もそれに似ています。私たちの目には決して喜ばしいものではありませんが、信仰により神様の視点から見つめなおす時、そこにも「愛」の一文字が浮かび上がってくるのです。◆この信仰の目を失ってしまうとき、私達は「試練」と「誘惑」の区別がつかなくなってしまいます。そしてある者は、神を恨み、信仰から脱落してしまうのです。でも最後まで神の愛を信じ、耐え抜いて良しと認められた人には「いのちの冠」が待っているのです。その時、全ての疑問は解決され、心からハレルヤと賛美できるのです。

神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
ローマ8章28節

木曜日, 12月 21, 2006

Xmas

岐阜ラジオ
「クリスマスについてのインタヴュー」
イ:インタヴューアー桃井沙央理
牧:川村真示牧師

1.クリスマスは何の日?

イ:最近日本でもクリスマスは、すっかり定番行事となりました。特に日本では、恋人同士のイヴェントとなっていますが、本来クリスマスとは何の日なのでしょうか?

牧:いい質問をありがとうございます。確かに最近の日本でも、クリスマスは年々、盛大イにお祝いされるようになって来ましたね。でも、どれだけの人が、その意味を考えているのかと言うと、少し疑問になります。
  
大学生のころ、こんなことがあったんですよ。ある時、友人がこう聞くのです。
「おい川村、お前のお父さんも牧師なんやろ。だったらクリスマスって何の日なんや、教えてくれよ?」でも、別の友人が、われ先にとこう答えたのです。
「あぁ、それ俺しっとるぞ。クリスマスって、キリストの死んだ日なんやろ!?」
まぁもちろんそれは、ふざけてのことなんですが、本気だったら寂しいですよね。

ほとんどの方はご存知だと思いますが、クリスマスとは、「キリストのお生まれになった日」をお祝いする日のことです。このクリスマスという言葉の意味ですが、クリスとは、「クライスト」のこと、つまり「キリスト」のことです。(日本ではXmasと書きますが、あれがギリシャ語のクリストスの頭文字です。そしてマスとは、ラテン語の「ミサ」つまり礼拝のことなのです。)

そう考えると、本来のクリスマスの過ごし方とは、もちろん家族や恋人と過ごすのもいいのですが、できたらみんなで教会に行き、祈り、賛美歌を歌う、そんな過ごし方もいいのではないでしょうか。

少し余談になりますが、このクリスマスって世界共通語ではないのですよ。私は3年半、ドイツにいましたが、ドイツではクリスマスのことを「Weihnachaten」といいます。これは英語でいうところの「Holy night・聖夜」のことなのですが、私はてっきり、クリスマスは(マ
クドナルドと同じで)「世界の言葉」だと思っていましたので、始めの頃、クリスマスを「Weihnachaten」と呼ぶことに、すごく抵抗があったのを覚えています。

2.サンタクロースとクリスマスの関係?

イ:牧師さんのお話しを聞いていると、クリスマスの本当の主人公は「キリスト」だった、ということになりますね。でも日本のクリスマスでは、むしろサンタクロースのほうが有名だと思います。このサンタクロースとクリスマスの関係は何でしょうか?

牧:そうですね。実は、クリスマスとサンタクロースは、元々、別な行事だったのですよ。夢を壊すようなことを言って申し訳ありません。(良い子は耳を塞いでくださいね…(笑)先ほどドイツにいたと言いましたが、ドイツではいまでも、地域によって差はありますが、サンタクロースの日を、クリスマスとは別の126日にお祝いしています。

サンタクロースとは、ラテン語で、サンクトゥス・ニコラウスといい、有名なカトリック教会の司祭の名前でした。それがオランダ語、シンタクラースとなり、それが英語圏で、サンタクローズとなり、日本語でサンタクロースとなったのです。

しかも、このニコラウスさんは、フィンランドでもノルウェー出身でもなくて、紀元4世紀頃の小アジア、現在のトルコのお方であったそうです。ショックなことばかりいって申し訳ありません。でもガッカリしないで下さい。このニコラウスさんはとても優しいお方だったのですよ。こんな逸話が残されています。

「ある時に、非常に貧しい家庭がありまして、借金のために、三人の娘を身売りさせなければいけないことになってしまったのです。そしてお父さんは、そのことを本当に心からを悲しんでいました。その話を偶然、ニコラウスさんが知ってしまったのです。そこで、ニコラウスさんが、どうしたのかといいますと、夜中こっそりと窓から、金貨の入った袋を三つその家に投げ込んだのです。するとそのうちの一つが、たまたま暖炉の前に駆けられていた靴下の中に入った」そうなのです。

イ:だから今でも、靴下の中にプレゼントを入れるという習慣があるんですね。

牧:そうなんですよ。ちなみに、現代のような少し太っちょで、トナカイに乗って、クリスマス・イヴに、子供達にプレゼントを配るようなサンタクロースのイメージは、19世紀のニューヨークで生まれたといわれています。またその後、このサンタクロースの、赤と白というテーマカラーが買われて、ある清涼飲料水企業(コカコーラ社)のイメージキャラクターに大抜擢されたわけですね。そのことが、この現代版サンタクロースが、これほどにまで世界中に広まった理由だといわれています。夢を壊すような話で申し訳ありません。

3.なぜクリスマスにプレゼント交換?

イ:確かにちょっとショックですね…。でも、そうなると、クリスマスとサンタクロースは、それほど関係ないということになってしまいますが、そこのところ一体どうなんでしょうか?このままでは、ちょっと寂しい気もしますが…。

牧:ええ、心配しないで下さい。このサンタクロースが、クリスマスに活躍するようになったのにも、実は深い意味があったのですよ。よい子のみんなも、この部分は、ぜひ聞いてほしいのですね。本当の意味で大切なのは、サンタクロースの背中に乗っている、あの袋のプレゼント、あれが大事なんです。

イ:やっぱりそうですよね。私もプレゼントは大好きです。(笑)

牧:私もプレゼント大好きですよ。(笑)聖書にはこんな言葉があります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ316節)

難しく聞こえるかもしれませんが、簡単に言えばこういうことになります。
  
つまり、サンタクロースの背中にある、白い布でくるまれたあの大きなプレゼントには、クリスマスの日に、家畜小屋で生まれて、白い布にくるまれていたイエス・キリスト本人、という意味があるのです。そして、そのキリストが、大きくなって、いのちをかけて、私達の罪のために、十字架にかかって死んでくださった。そしを信じるものはみな、タダで「永遠のいのち」が与えてられる。そういった意味がぜーんぶ、ひっくるまれて、あのプレゼントとなっているわけです。つまり、クリスマスの最高のプレゼントは、イエスキリスト本人だったのです。そしてサンタクロースは、「天のお父様(神様)」を表しているのですよ。

4.教会のイヴェント案内

イ:う~ん、ちょっと難しいですが、一つ分かったのは、自分が今までいかに、意味を考えないで、クリスマスをお祝いしてきたか、ということです。ところで、この岐阜キリスト教会では、クリスマスに何かイヴェントがあるのでしょうか?

牧:はい。ご案内いたします。1224日(日曜日)クリスマス・イブですが、午後6時から、キャンドル・サーヴィスといって、賛美歌を歌い、簡単な聖書の話しを聞く時間を持ちます。大体1時間くらいなのです。これはもちろん無料ですし、クリスチャンでない方も大歓迎です。

その後に、「祝会」といって、美味しいケーキを食べながら、お祝いのひと時を持ちます。またその中で、岐阜キリスト教会の名物の、子供達による聖誕劇・オペレッタが演じられます。(オペレッタとは、歌で綴る、オペラの、もっと短いもののことです。)素晴らしいですよ。ぜひおいでください。

ちなみに、この『祝会』の方にご参加の方は、ケーキ代など、本来300円が必要となります。でも、この番組を聴いて、始めてお越しくださった方は無料いたしますので、ぜひ多数でお越しください!お待ちしております。

イ:どうも今日は貴重なお時間をありがとうございました。

牧:いえいえ、こちらこそありがとうございました。

木曜日, 12月 14, 2006

御言葉によって変えられる

【ショートメッセージ】 第24日目「みことばによって変えられる」
今回のテーマは「真理のみことば」ですが、このみことばこそが、私たちを内から聖め、キリストに似たものと変えてくださるのです。しかし、このみことばが、私達の血となり肉となるためには、少しばかりの「秘訣」が必要となるのです。

規則正しい霊育こそが、健全な霊性を育てる。最近、食育という言葉がよく登場しますが、特に大事なのは「朝食」だと言われています。この朝食を抜いていると、脳の働きが悪くなり、徐々に体も弱ってきて、病気にかかりやすくなるというのです。「いのちのパン」も同じではないでしょうか?何か問題が起こってから、一度にたくさん食べても、霊的消化不良をおこしてしまうでしょう。しかし毎朝、規則正しく、適量食べることで、私達の心は育ち、霊性も整えられていくのです。

また良く噛まなければなりません。みことばには、柔らかいものと、硬いもの。そして分かり易いものと、分かりにくいものがあります。後者の場合、私達は「黙想する」という手段によって、みことばを何度も反芻する必要があります。また、聖研などで、みんなの意見を聞くことも大切でしょう。そして、週に一度は牧師に噛み砕いてもらい、どんなみことばもバランスよく食べることが大切なのです。

では、いのちのパンの栄養価は何でしょうか。まず私達の「心の目」を良くし、何が真理であるのかを、よく見極めることが出来るようになります。そして「心の耳」を良くし、聖霊の細き御声が、よく聞こえるようになります。その他にも、冷えきった心を「暖め(燃やし)」、鉛のように重たい心を、羽のように「軽く(自由)」にします。悪魔が放つウイルスも、健康な人の心を病気にすることは出来ません。

くれぐれもメタボリックには気をつけましょう。最近、中高年の二人に一人が「肥満」だと言われています。肥満は、あらゆる病気を引き起こします。様々なダイエット方法がありますが、やはり一番良いのは「規則正しく食べ」「運動すること」でしょう。心も同じです。みことばを食べて(聞いて)ばかりいても、心は重たくなるばかりで健康にはなりません。「聞いたら実践する」ことが大切なのです。

また御言葉は「種」にも譬えられています。種が成長するためには「畑の石」を取り除かなければいけません。つまり私達の心にある先入観やプライド、自己中心の石を取り除かなければ、種は深く根を張り、上に成長することができないのです。◆もし自分でその石を取り除けないなら、神様ご自身が「御言葉や試練のハンマー」でそれを砕かれることがあります。また分かっても分からなくても御言葉を聞き続けることによって、耕され続けなさい。信仰によって種を受け入れ、自分の思いを神様に明け渡すことが大切なのです。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、
心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。
みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
また、みことばを実行する人になりなさい。
自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
ヤコブ1章21-22節

土曜日, 12月 09, 2006

神のかたちを壊すもの

【ショートメッセージ】 第23日目「神のかたちを壊すもの」
前回「聖め」とは「神のかたち」の完全な現れであるイエス様に似た者にされることだと学びました。ではもっと具体的に「神のかたちを回復し」「聖められ」たらどうなるのでしょうか?それを知るために「神のかたち」を失う前の人間と堕落した後の人間の姿を比べ、何を回復するべきなのかを知りたいと思います。

なぜ人間は「神のかたち」を失ったのでしょうか?それは人間の心に「罪」が入ってきたからです。この「罪」とはヘビが言ったように「自分が神のようになる」ことを意味しています。つまり「もう神様なんかいらない」「私は私の思うように生きる」といった具合に神に反抗し、自分が神の座につき、他人と被造物を自分の意のままに操ろうとするのです。この「自己中心な生き方」こそ罪の本質です。

その結果エデンの「平和」は一瞬にして崩れ去りました。それまで人は神様と親しく語り、夫婦の間にも隠し事がなく、自然の恵みを享受できたのに、一瞬にして神様の愛を信じられなくなり、かえって恐れて逃げ、家族さえも信用せず、互いに罪をなすりつけ合うようになったのです。そればかりか、被造物までもが、その悪影響に服してしまいました(ロマ8:20)。罪の破壊力は何と恐ろしいことでしょう。

今なおその影響は続いています。多くの人々が、溢れるほどの自由を手に入れながら、なぜか孤独で、空しく、平安がないのです。世界を見渡し、ニュースをみても「神との平和」「人との平和」「自然との平和」どれもが壊れっぱなしなのです。人は憎しみ合い、自然を破壊(汚染)し、神様に背を向けて生きています。私達クリスチャンはどうでしょう?本当に、この現状に心を痛めているでしょうか?

多くの人々は、この状況を何とか自分の力で解決しようとします。そして外に向かって「平和」を叫ぶのです。しかし平和とは「外」からではなく「内」から回復するものです。環境を変えようとしたり、人を変えようとするのではなく、まず自分がその場にひざまずき、自己中心な生き方を悔い改め、十字架の血潮で洗われた白い衣を着せられ、「本当の平安」をいただくことが平和への第一歩なのです。

聖書には「平和を追い求めなさい」とあるように、失われた平和の回復こそ、人生の大切な目的の一つです。そしてそのためには、まず自己中心の古着を捨て、聖い白い衣を着せられ、「神のかたち」を回復していかなければならないのです。◆そして落ち着いた心で、静かに、「神」と「隣人」と「被造物」を愛していくのです。その生き様が、波紋のように、少しずつ周りの人にも伝染していきますように。それが、遠回りのようでいて、平和(シャローム)の近道なのです。

あなたがたは
古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
その人は「造り主のかたち」に似せられてますます新しくされ
真の知識に至るのです。
コロサイ3章9-10節

木曜日, 11月 30, 2006

神のかたちの回復

【ショートメッセージ】 第22日目「神のかたちの回復」
今日から「聖め」についての学びにはいります。それを一言でいえば、罪によって破壊され、歪んでしまった「神のかたち」を回復していくことです。でも、破壊されたものを、どうやって回復させるのでしょう?そもそも神のかたちって何でしょう?そんなことを7回に分けて学んでいきたいと思います。まず始めに…

神のかたちを回復するとは、蛇が言うところの「神のようになれる」という意味ではありません。この世の宗教は、厳しい修行に耐え、功徳を積めば、神のようになれるとか、神秘的な体験が出来るとか、私達の「プライド」と「好奇心」を刺激してきます。しかし、それらは全て、古典的サタンの常套句です!騙されてはいけません。私たちは、力ではなく、愛と謙遜において、似た者とされるのです。

その目指すところは「キリストに似たものとされること」です。なぜなら、この方こそ「見えない神のかたち(コロサイ1:15)」であり「神の本質の完全な現われ(ヘブル1:3)」だからです。イエス様は神の御子でありながら、救いのために、この世に下って来られ、「十字架の死」にまでも従われたのです(ピリピ2:6-8)。この十字架の愛と謙遜こそ、私達が地上の生涯で、全身全霊を傾け、目指すところなのです。

しかし、それは肉的な努力によって、達成されるものではありません。ましてや、修行や、どんな功徳を積むことによってでも無理です。聖書には「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです(第2コリント3:18)」と書いてあるからです。どんなに小さな「聖霊(良心)のささやき」さえも聞き漏らさない、そしてその声に従って行く、その時、私たちは少しずつ「キリストに似た者」とされていくのです。

その上で、神様は、私たちがその御業に協力することを望まれています。神様は私達の内に働いて「神様に従いたいという志し」を与えてくださいます。そしたら、自分の意志を働かせて、古い自分を脱ぎ捨て、心の一新によって自分を変えていかなければいけないのです。この「協力」があって初めて、御霊は自由に働き、私達は「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く」のです。

どうでしょうか?胸のワクワクするような話ではないでしょうか?私達の歩みは、「救われて、お終い」ではなく、そこから始め、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく歩みなのです!◆この「変えられる」という言葉はギリシャ語で「毛虫が蝶に変わるときに使われる言葉」です。蝶になるためには殻を破らなければなりません。私たちも、キリストのようになるためには、破らなければならない殻があるのです。もしそれを、自分で破れないなら、主ご自身がそれを破られます。つまり、この「聖め」の歩みは、痛みをともなう歩みでもあるのです。次回以降そのことを学んでいきましょう。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、
鏡のように主の栄光を反映させながら、
栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
第2コリント3章18節

木曜日, 11月 16, 2006

成熟した交わりを目指して

【ショートメッセージ】
第21日目「成熟した交わりを目指して」

今日は「交わり」についての最後の学びです。イエス様は「幼子のように」と勧められましたが、決して「子供っぽくあれ」とは言われませんでした。聖書には何度も「大人になりなさい」「成長しなさい」と勧められています。では一体、捨てるべき子供っぽさとは何であり、成熟とは何を意味するのでしょうか?

まず「子供っぽい理想主義」を捨てなさい!ある有名な神学者はこう言いました。「目の前の兄弟姉妹よりも、自分の理想を愛す者は、クリスチャン共同体の破壊者となります」と。その例がデオテレペスでしょう。彼はある意味「理想」に燃え、自分の力で教会を刷新してやろうと思っていたかもしれません。そして指導者ばかりか兄弟姉妹をも批判し、交わりを破壊してしまったのです。自分勝手な理想を他人に押し付けるような「子供っぽさ」は、捨てられなければなりません。

成熟するとは第一に安定するということです。聖書には「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく」とあります。つまりデオテレペスのような人が現れたり、異端の教えが教会に入ってきても、簡単になびいたり、慌てたりしないことです。問題のあるときにこそ「集ること」をやめず、しっかり「聖書の教え」に留まりたいものです。

そして第二に、感情的に衝突するのではなく、話し合いで解決できることです。聖書には「愛をもって真理を語り」とあります。友を失いたくないと、言うべきことを言わないでいたら、その友は永遠に失われてしまうかもしれません。愛と勇気を持って真理を語りましょう。まずは一対一で語り合い、それでもだめなら、信頼できる人といっしょに相談に乗りましょう。それでも悔い改めないときには、教会の「秩序」と「聖さ」を守るために、大人としての「決断」が求められます。

第三に、自分ではなく、隣人を喜ばせることです。子供のうちは「してもらうこと」によって満足を得るものです。しかし大人になると「与える喜び」を知るようになります。交わりも同じです。初めは交わりの中で「分かってもらうこと」を第一に求めるでしょう。しかし成長に伴い、今度は人の話しを聞き、兄弟姉妹を喜ばせ、新しい人を「もてなすこと」に喜びを感じるようになってくるのです。

どうでしょうか?私たちは、考え方において、信仰において、そして「交わり」において大人になっているでしょうか?◆イエス様は、ご自分を喜ばせることはなさりませんでした。ただ神の栄光のために、無条件で私たちを受け入れてくださったのです。◆私たちは人間ですから、全く自分が楽しまないことは不可能でしょう。しかし、それを二の次にしてでも、互いに受け入れあい、「もてなす人」になることは大切です。

キリストでさえ、

ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。
こういうわけですから、

キリストが、神の栄光のために、
私たちを受け入れてくださったように、
あなたがたも互いに受け入れなさい。
ローマ15章3,7節(抜粋)

壊れた交わりを回復する

【ショートメッセージ】
第20日目「壊れた交わりを回復する」

前回、私たちは「交わりが壊れるとき」について学びました。それは想像するだけでも、心が痛む、悲しい交わりの姿でした。しかし今回は、一度壊れてしまった交わりが「回復するため」に必要なことは何かを、ともに学びたいと思います。

まず私たちは「平和とは何か」を知らなければなりません。聖書に「平和をつくる者は幸いである」とあるように、平和とは本来一人一人が努力して「築いていくもの」です。決して自然に「平和」が生まれるのでも、何も問題がない状態が「平和」なのでもありません。たとえ問題が起こり、交わりが壊れてしまっても、私たちはその中から「キリストにある真の平和」をつくることができるのです。

そしてその平和は、私達の心から生まれるのです。平和は待っていても、あちらから歩いては来ません。ましてや自分で復讐しようとしたり、相手を自分の思い通りに変えようとするなら、ますます遠ざかって行ってしまうのです。まずは自分が変わる事です。たとえ相手が悪くても、一方的に恨まれているときにでも、「申し訳ありませんでした」と、こちら側から和解を申し出ることが聖書的な方法なのです。その際、相手がそれを受け入れなくても、逆ギレしてはいけません。

しかし「裁かない」ということは、目をつむることではありません。兄弟姉妹の罪や争いを見ても、気付かない振りをするのは、愛ではなく「無関心」です。パウロは教会に対し「あなたがたの中には、争いを仲裁することのできるような賢い者が一人もいないのですか」と嘆いています。そして積極的に「和解の務めを担い」「互いの重荷を負い合い」「他人ことも顧みる」よう、勧めているのです。

でもその際は、言い方が大切です。どんなに正しいことを言っても、「言い方」が適切でなければ、相手の怒りに油を注ぐだけです。箴言には「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす(15:1)」とあります。決して、ミイラ取りがミイラになり、一緒に憤慨したり、問題を更に複雑にしてしまうようなことがありませんように。具体的な方法については、次回お話します。

どうでしょうか?今日は一度壊れてしまった交わりが回復するために、何が必要なのかを学びました。この「和解の務め」を他人任せにしてはいけません。一人びとりが「平和をつくっていく」ことが大切なのです。◆でも一番大切なのは、和解のテクニックではなく、一人びとりが「しっかりとイエス様に繋がっていくこと」です。イエス様こそ私たちの「平和」であり、全ての敵意は十字架によって葬り去られたのです。ただそのことゆえに、私たちは「神の家族」なのです。

キリストこそ私たちの平和であり、
二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわします。
敵意は十字架によって葬り去られました。
あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、

神の家族なのです。
エペソ2章14-19節(抜粋)

木曜日, 10月 19, 2006

交わりが壊れるとき

【ショートメッセージ】 第19日目「交わりが壊れるとき」
教会の「交わり」は、本来、麗しい愛の交わりです。しかし、この交わりは「救われた罪びとの集まり」でもあるので、時に、コリントの教会がそうであったように「私はパウロに」「私はアポロに」「私はキリストに…」といった具合にバラバラになってしまうことがあるのです。それを未然に防ぎ、主にある本物の交わりを築くためにも、今回はあえて「問題」に焦点を当ててみたいと思います。

まず、群れがひとつであるためには、指導者の姿勢が問われている。前回学んだように、交わりの中心はあくまで「イエス様ご自身」です。しかし指導者がその「中心」になってしまったり、働き人によって党派(グループ)が形成されてしまうなら、その交わりは健全さを失っています。指導者の第一の仕事は、人々を神様につなげることであり、自分につなげることではありません!そのことを自戒し、人間的な牧会を退け「まずは自らが模範的なキリストのしもべ」となるべきです。

その上で、群れ全体は、その指導者を認めることが大切です。デオテレペスは自分が属する群れの指導者を軽んじました。そして自分が「かしら」になろうとして、指導者をののしり、交わりを完全に破壊してしまったのです。パウロはこう言っています。「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。(Ⅰテサ5:12)」

しかし時には、親切な言動が分裂を招くこともあります。デオテレペスのようなケースは比較的容易に、誰かが「おかしいなぁ」と気付くでしょう。しかしアブシャロムのようなケースはどうでしょうか?その人は、とても親切に近づいてきます。「何か悩んでいますか」「あなたは正しいですよ」「それは教会がちょっと変ですね」と言葉巧みに心を盗み、知らない間に教会の中に、別なグループを作ってしまうのです。難しいのは、多くの場合、それらが善意でなされていることです。

最後に噂話には気をつけましょう。前回学んだようにクリスチャンの交わりの特徴は「互いの罪や弱さを告白し合うこと」です。でも話した内容が「噂」として教会全体に広まってしまったらどうでしょうか?その人は二重に傷つき、もう二度と話そうとは思いません。噂話とは本人のいないところで、相手に不利な証言をすることです。交わりでは基本的に「他人のことではなく自分のこと」を話しましょう

教会の分裂分派については、学ぶだけでも心が痛みます。そして私たち以上にイエス様ご自身が悲しまれるのです。教会とは「キリストのからだ」ですから、自分勝手な言動によって、引きちぎってはいけないのです。◇そのために、私たちに出来ることがあります。それは一人一人がこのイエス様を愛し、十字架にまで従われたその姿に倣い、兄弟姉妹に仕え、自分の十字架を負っていくことです。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」
(マルコ9章34節)

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2章6-8節)

水曜日, 10月 11, 2006

真実な交わり

【ショートメッセージ】 第18日目「真実な交わり」

私たちは「交わり」と聞くと、何をイメージするでしょうか?ある人にとって「交わり」とは、硬いメッセージを聞いた後の、リラックス・タイムのようなものかもしれません。もしそうなら、その人にとっての交わりとは、「軽い日常会話」や「茶菓・食事」もしくは「年代や性別ごとの交流」を意味するでしょう。しかし、聖書が勧めるところの交わりには、もっともっと深い意味があるのです。

教会の「交わり」とこの世のサークルは、根本的に違っています。それは「キリストを中心としている」という点においてです。イエス様はある時こう言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる(マタイ18:20)」と。つまり教会の「交わり」の第一の目的は、自分が楽しむことではなく、中心におられるイエス様の栄光を表すこと(Ⅰコリ10:31)なのです。

そして、この交わりは「聖い交わり」でもあります。世的な交わりには、みだらな冗談や噂話がつきものです。しかし聖書には「みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです(エペ5:4)」とはっきり書かれています。私たちはそのような話題を避けながら「ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与え(4:29)」たいものです。

また、この交わりによって、私たちは「本当の赦し」を体験します。この交わりは、イエス様を中心とした「聖い交わり」です。もし誰かの罪が放置されるなら、イエス様はその中心には居ることはできません。だから罪を犯してしまったら、真っ先に悔い改め、主に祈る必要があります。また、それだけではなく、信頼できる兄姉(当事者)にも、正直に話し、一緒に祈ってもらう必要があるのです。このことはプロテスタント教会において軽視されがちですが、とても大切なことです。クリスチャンの交わりが誰かの赦しを祈るなら、天の父はそれを聞いてくださるのです!

このような「真実な交わり」のためには「正直さ」が必要です。時に、クリスチャンの交わりでさえ「自分がどんなに素晴らしいか」「どんなに伝道しているか」「どんなに聖書のことを知っているか」といった見栄の張り合いになってしまうことがあります。どうしてその様な交わりで自分の本心を打ち明けることができるでしょうか?一人一人が仮面を脱ぎ「正直」になるとき、交わりはグッと深まるのです

正直になることは簡単なようで、とても難しいことです。そのためには、プライドを捨て、謙遜になり、兄弟姉妹に「一緒に祈ってください」とお願いする必要があります。◇イエス様はとても正直でした。ゲッセマネの園で、何と御自分の弟子達にこう言われたのです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」。このように「一緒に祈っていてください」と懇願されたのです。この正直さに見習いたいものです。

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、
互いのために祈りなさい。(ヤコブ5章16節)

もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、
天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。(マタイ18章19節)

金曜日, 10月 06, 2006

あなたの属するところ

【ショートメッセージ】
第17日目「あなたの属するところ」

個人主義的な傾向の強い現代社会において、「特定の教会」に属することは、窮屈でナンセンスなことのように思えるかもしれません。時には転勤などの事情により、なかなか教会を決められないときもあります。しかしそれでも聖書は、気ままな教会生活を厳しく戒めていますから(Ⅰテモ5:12-14,Ⅱテモ4:3)、出来るだけ早い時期にどこかの教会に落ち着き、そこの指導に従い、何らかの責任を担い、じっくりと信仰を養うのが良いのです。「属する」ことを軽んじてはいけません。

そもそも、なぜ教会はキリストの「からだ」に譬えられるのでしょうか?それは、教会が単なる「組織」や「団体」ではなく「生き物」だからです。どんなに優れた陸上選手の足であっても、体から切り離されたら、数時間で死んでしまうでしょう。それと同じように、私たちも「キリストのからだ」の一器官なのですから、当然、そのいのちの源である「からだ(教会)」に繋がっている必要があるのです。

また同時に、教会は「キリスト」のからだでもあるのです。もしあなたの婚約者が「きみとは結婚したいけど、君の体はいらないよ。そんなの無くたっていいし、他の人の体だっていい」と言ったらどうでしょうか?そこに本当の愛があるでしょうか?同じように「イエス様のことは大好きだけど、教会はどうでもいい。行かなくてもいいし、反対にどこに行っても変わらない」という態度はありえないのです。イエス様は、その目の前の教会のためにも命を捨てられました(エペソ5:25)。

「キリストのからだ」においては、弱い部分が特に大切です。聖書には「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい(ロマ12:15)」とあります。それは私たちが「一つのからだ」に属しているからです。もし指先にとげが刺さされば、からだ全体が痛むでしょう。お腹が痛めば全身で苦しむのです。それと同じように、私たちは特に弱い器官をいたわりながら「喜びと悲しみ」を共有するのです。

最後に、それぞれの役割を果たすことが大切です。もし心臓が「単調な働きにウンザリした」といって止まってしまうならどうなるでしょう?手足のつめが「自分なんかいなくたっていい」といって剥がれ落ちてしまったらどうなるでしょう?私達は、自分でどう思おうと、必ず何らかの「役割」と「賜物」が与えられているのです。一人のヒーローではなく、みんなが自分の賜物を活用し、からだ(教会)に仕えていくとき、「福音」を述べ伝えられ「主の栄光」が現れるのです。

今日の箇所でリック・ウォレンは厳しくこう指摘しています。「多くのクリスチャンは、教会を利用するものの、愛してはいない」と。◇私は全てのクリスチャンは、からだである教会を愛していると信じます。でも積極的に「属し」自分の「役割」を果たしているでしょうか?今日もう一度そのことを、確認したいものです。

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって
満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1章23節)

一つのからだには多くの器官があって、
すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
(ローマ12章4-5節)

あなた方の間に愛があったら

【ショートメッセージ】
第15日目「あなたがたの間に愛があったら」

少々極端な例ですが、人間関係を面倒くさがり、無人島に聖書一冊だけを持って行き毎日お祈りしていたら、それでもその人の信仰は成長するでしょうか?答えはNOです。聖書の言葉は独り善がりなものではなく、人間関係の中で実践され、初めてその意味や、自分自身への発見があるのです。どういうことでしょうか?

以前、神様を愛することと、人を愛することは表裏一体であるとお話しました。この二つがそろわなければ、なかなか健全な信仰は育たないのです。健全な信仰とは、まず神様に出会い、神と人とを本気で愛そうとすることです。すると私たちは次第に自分の愛のなさに気づき、何度も十字架の愛に立ち返ることになるのです。人は「神と人との関係」に留まり、練り聖められることによって、少しずつ成長していくのです。それを面倒くさがっていては、信仰も人格も成長しないのです。

しかし間違った愛は、かえって人を傲慢にします。ある人は、天国で神様の前に出るとき、こう言うかもしれません。「神様、私はあの人にもこの人にもこんなに良いことをしてあげました」「私は○人に伝道して、その結果○人が救われました」と。でもそれにどそれほどの価値があるのでしょう。マザーテレサは言いました。「あなたが何をしたかではなく、どれだけの愛を込めたのかが重要なのです」と。

本当の愛は、自分の足跡を残しません。イエス様は「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と言われました。もしかしたらその小さい人は、心が病んで、感謝することさえ出来ないかもしれません。人の目にはちっぽけな存在なので、誰もあなたのしたことに気付かないかもしれません。でもイエス様は「わたしは知っている。それに満足し天に宝を積みなさい」と言われるのです。

また、本当の愛は、行いをともなうのです。先ほど「何をするかではなく、気持ちだ」と言いましたが、それは「気持だけで良い」と言っているのではありません。Ⅰヨハネに「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」とあるように、本当の愛には「行い」がともなうのです。なすべきことが示されたら、決して先延ばしにせず、実行するのです

この愛を実践する場所として、イエス様は「教会」を用意されました。教会は、神様の花壇のようなもので、そこに愛の花を咲かせるのは、私達一人一人なのです。そこに花が咲くのを見て、人々は「あぁきれいだな、素敵だな」と心を開くでしょう。そうして心が耕され、その人の心にも、福音の種が撒かれるのです。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているのは愛です。
(Ⅰコリント13章13節)

もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、
それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、
すべての人が認めるのです。
(ヨハネ13章35節)

神の家族としてつくられた

【ショートメッセージ】
第15日目「神の家族として造られた」

今日から新しいテーマは「神の家族」について学びます。7回の学びの中で、神の家族の一員とされていることがどれほど素晴らしく、この家族を共に建て上げていくことが、どれほどやりがいのあることかを、共に学んでいきたいと思います。その前にまず、私たちに与えられた、現実の家族に目を向けて見ましょう。

家族は、本来、神様が与えてくださった賜物です。進化論を信じ、自然淘汰を唱える人にとって、家族の意味とは、単に「よりよい子孫を残すこと」だけでしょう。でも、神様が人間に家族を与えたのは「ヒトが一人でいるのが良くなかった(創2:18)」からです。人はひとりでは生きていけません。だから神様は、その孤独を癒し、深い愛情と信頼を経験していくために、私達に家族を与えられたのです。

でも同時に、この地上の家族は、一時的で、壊れやすい関係でもあります。この世に「完璧な家族」は存在しません。むしろ完璧を求めるほど、親も子もお互いに疲れ、傷つき、孤独を感じてしまうのです。もしかしたらどこかに、理想的な家族がいるかもしれません。しかしそれさえ永遠ではなく、必ず「別れ」はやってくるのです。愛する誰かが先に召されるのです。避けて通れない、残酷な現実です。

そんな私達に、神様は「永遠の、霊的な家族」を与えてくださいました。その家族には「別れ」がありません。どんなに求めても、裏切られることもありません。唯一完璧なお方、神様ご自身が、私達の親となり、家族となってくださったのです。このお父さんの大きな御手に抱かれるとき、私たちは本当の「癒し(安らぎ)」を経験します。そして孤独ではないように、霊的な兄弟姉妹まで与えられるのです。

私たちがこの神様の子となり、家族の一員になるためには守るべきルールがあります。全ての人が招かれているのです。しかし、土足のまま踏み込むことは許されていないのです。私たちは、三位一体の神様の、聖なる交わりに加えていただくのです。だから私達も、汚れた心を悔い改め、バプテスマを受け(罪を洗われ)、聖い霊(聖霊)に満たされていなければならないのです。そうして初めて、私たちは、神の子として正式に養子縁組され、聖なる家族の一員に認められるのです。

この家族の一員とされることが、どれほど大きなことなのか理解しているでしょうか?子とされたということは、父の、莫大な霊的な遺産(永遠のいのち、聖霊の賜物)の「相続人」とされたということです。◆天のお父様は、その相手を探していましたが、多くの人々の中から特に惨めな私たちを選び、罪の泥沼から引き上げ、イエス様の血潮によって洗い、王子(王女)のしるしである聖霊の白いマントをかぶせて下さったのです。最初から最後まで、全てが一方的な恵みでした。

私たちが神の子どもと呼ばれるために、
・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・
御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。
(Ⅰヨハネ3章1節)

神を遠くに感じるとき

【ショートメッセージ】
第14日目「神様を遠くに感じるとき」

クリスチャンになりたてのころ、実は自己中心な祈りであったのに、それがかなえられたという経験を持つ人は少なくありません。しかし神様は、私達が、真の礼拝者としての、成長することを願われているので、時に御顔を隠されるのです。

主を遠くに感じる時、まずその原因を探る必要があります。以前にも引用しましたが、神様を遠くに感じるとき、私たちの側の「咎(とが)」が原因である場合があります(イザヤ59:2)。その時は、すぐにでも、その咎を取り除かなければなりません。さもなければ、次第に心はマヒし、ついには神様を求める心まで失われてしまうことがあります。そうなる前に、悔い改め、臨在を取り戻す必要があります。

しかし、いつでも罪が原因であるとも限りません。そもそも何にでも理由を求め、納得しようとするのは人間の側の傲慢ではないでしょうか?主は創造主であり、私たちは被造物です。分からないことがあって当然なのです。大切なのは、たとえ分からなくても、ヨブのごとく「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と心からの礼拝を捧げることなのです。それこそ「究極の礼拝」です。

また礼拝するときは、感覚だけに頼ってはいけません。私たちは弱いので、ヨブの十分の一の苦しみを味わうだけで、心が押しつぶされ、主の臨在を感じられなくなってしまうかもしれません。しかしそうであっても、私たちは壁に向かって礼拝しているわけではなく、そこにも主の臨在は溢れているのです。たとえ自分の気持ちがついていかなくても、そこに主を認め、心からの礼拝を捧げたいものです。

そして最後に大切なのは、神様の愛を信じることです。神様の愛を信じられないとき、私たちは「見捨てられた」と感じます。しかし私たちがそう感じても、神様は、私たちを愛するからこそ、時に試練を用意し、今しばらくの間、御顔を隠されているのです。そしてその先には「平安」と「希望」が待っているのです。それを信じるからこそ、私たちは試練の中でも、賛美を捧げることができるのです。

どうでしょうか?私たちの礼拝は「気分によらない、信仰に基づいた礼拝」となっているでしょうか?主の愛を疑わず、見捨てられたと思うときにも、心からの礼拝を捧げているでしょうか?◆その最高の模範は、イエス様です。イエス様は十字架上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と祈られました。しかしその苦しみの中でも、最後まで父なる神に従い、愛と信仰を全うされたのです。◆あなたが見捨てられたと思うとき、このイエス様を思い出してください。イエス様はあなたの苦しみを全部知っておられます。そして、今も生きて、父なる神様の右に座して、あなたのために祈っておられるのです。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。
なぜ、御前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
私の救い、私の神を。(詩篇42:11)