火曜日, 2月 27, 2007

賜物をもって神と人とに仕える

【ショートメッセージ】
第30日目 「賜物をもって神と人とに仕える」

私達は「奉仕」について引き続き学びます。前回は、奉仕の基礎は「キリストへの愛」だと学びました。自分の幸福ばかりを求めていても、幸福にはなりませんし、嫌々ながら奉仕に打ち込んでも、楽しくないばかりか、神にも人にも喜ばれないのです。ではいったい、どのような心で奉仕をしたらよいのでしょうか?

賜物にふさわしく奉仕をしなさい。聖書には「からだ(教会)全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、成長し、愛のうちに建てられる(エペソ4:16)」とあります。つまり人には、神様から与えられた「賜物」と「力量」があるのだから、それを発見し、自分の力量をわきまえ、神と人とのために用いることが大切だということです。そうする時、キリストのからだは力強く成長し、そこに集う一人一人は、本当の意味での「幸福感」と「充実感」を味わうのです。

しかしなかなかそうはいきません。リックウォレンは、ありがちな二つのケースを取り上げています。一つは自分を卑下し、賜物を地面に埋め、そのまま台無しにしてしまうケースです。そういう人は、賜物の豊かな人を見ては、うらやましく思い、ますます落ち込んでしまうのです。もう一つのケースは、人と比べ、自分の賜物を誇り、自分の「やり方」こそ霊的であると信じ、押し付け、ついて来れない人を裁いてしまうケースです。どうして、そうなってしまうのでしょうか?

もしかしたら不安なのかもしれません。神様は「もう既に」「溢れるほど」与えてくださっているのに、それが信じられないから、人と比べ、時には非難し、安心したいのかもしれません。でも人と比べ始めたとたん、私たちは更に不安になってしまうのです。とかく「隣の芝生は青く」見えるものです。人と比べても何にもなりません。「既に」与えられていると信じ、謙遜に用いることが大切なのです。

でもどうしたら「その賜物」を見つけられるのでしょう?黒澤明監督は言いました。「とにかく好きなことを見つけなさい。無心になって打ち込める何かを見つけなさい。それが将来、君たちの立派な仕事となるでしょう」と。クリスチャンの奉仕も似ています。「奉仕」とは、したくもないことを、嫌々するものではありません。まずは自分の好きなことを見つけ、それを神と人の役にたつように磨くのです。そして賜物に相応しく、喜び、感謝をもって奉仕をするのです。そうすれば他人の評価も気にならなくなるでしょう。だって自分が楽しんでいるのですから♪

ペテロをはじめ多くの弟子達は漁師でした。しかし漁が「そのまま」彼らの奉仕になったのではありません。彼らは一度、網をはじめ「全て」を捨て、イエス様について行きました。その結果彼らは「人間をとる漁師」とされたのです。◆私たちも同じです。得意なことを、ただ気ままにしていれば良いのではありません。一度はそれを主に捧げ、あるべき優先順位の中で、主を第一について行くのです。その時、単なる興味と得意分野が「聖められた霊的な賜物(奉仕)」となるのです。


イエスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。
あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨てて従った。
(マタイ4章19-20節)

ここに少年が
大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。
イエスは…彼らにほしいだけ分けられた。
すると、人々が食べたうえ、
なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
(ヨハネ6章9-13節)

水曜日, 2月 14, 2007

本当の奉仕とは

【ショートメッセージ】
第29日目「本当の奉仕とは?」

今日から新しい学びが始まります。それは、5つの目的その4「奉仕:神と人とに仕えて生きる」についての学びです。教会では、よく「奉仕」といわれますが、どうして奉仕がそんなに大切なのでしょうか?そもそも「奉仕」とは何なのでしょうか?そんなことについて、7回に分けて、少しずつ学んでいきましょう!

世の中は空前の「自己啓発ブーム」です。本屋をのぞけば「自分がどうしたら豊かに生きられるか」「影響力のある人間になれるか」「金持ちになれるか」といった自己啓発の本がびっしり並んでいます。他にも「健康ブーム」だったり、「スピリチュアルブーム」だったり色々ありますが、結局は同じことです。人は、手を変え、品を変え、昔も今も、結局は「自分」にばかり関心を向けているのです。

クリスチャンはどうでしょうか。世の中の影響が多少なりともあるのではないでしょうか?「クリスチャンの幸せ」「賜物」「豊かさ」というセミナーはたくさんあります。そういう働きも大切です。でもそれだけでは「自己啓発」と変わらないのではないでしょうか?私達は「自分以外の人々」にも関心を持っているでしょうか?学んだことや聞いたことを、他の人々のためにも活かしているでしょうか?

聖書は厳しく「自分だけ幸せになりたい教」を戒めています。イエス様は「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」と言われました。金持ちの例えはもっと明らかです。金儲けがいけないのではありません。ただ多く与えられた者は、神と人のためにそれを用いることを求められているのです。それを悟らず、自分のためだけにそれを蓄えようとした金持ちは、結果的に「いのち」を失ってしまいました。

しかし「自分を粗末にしても」いけないのです。もしあなたが、嫌々ながら、無理やり、神と人とに仕えているのなら、知らない間に、人にも同じことを強要し、自分よりも幸せで自由な人を妬む「パリサイ的クリスチャン」になってしまうでしょう。「自分だけ」はいけませんが、「自分も幸せ」になることは、私たちが思う以上に大切なことです。そのためにも「健全な意味での自己投資」が必要となります。

健全な意味での自己投資とは何でしょうか?それは、十字架に根ざし、神の愛をしっかりと心に蓄えることです。聖書にはこうあります。「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立ちません。(Ⅰコリント13:3)」◆自分が祝福されるためではなく、救われるためでもありません。ただイエス様の愛に感動し、その一方的な愛に押し出されたから、兄弟のために生きるのです。この「愛の基礎」から生まれるものが「本当の奉仕」であり、天に宝を積む「良い行い」なのです。

キリストは、私たちのために、
ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは、兄弟のために、
いのちを捨てるべきです。
(Ⅰヨハネ3章16節)

時間がかかる

【ショートメッセージ】
第28日目 「時間がかかる」

今回も含め7回「聖め:神のかたちの回復、自己中心からの解放」と題して学んできましたが、今日で最終回になります。前回は「聖化への近道はなく、誘惑に打ち勝つテクニックもない。まずはイエス様の十字架の恵みに立ち返るべきだ」とお話しました。その上で、今回はもう少し具体的に、お話したいと思います。

聖められるためには、砕かれなくてはなりません。聖書には、神様が陶器師で、私たちは粘土であると書かれています。しかし長年の間に、私達は勝手なものを色々とくっつけてしまっているのです。ちょっとしたものなら、神様はパキンと割って取り除いてくださるでしょう。しかしあまりにもひどい場合、神様は元の「神のかたち」を回復するため、それを粉々にし、造り直さなければいけないのです。

それには痛みをともないます。だから私達は「轆轤(ろくろ)」から飛び出します。でもそこに本質的な解決はありません。逃げ回れば、逃げ回るほど、問題も大きくなり、私たち追いかけて来ます。そして段々と誤魔化せなくなり、いたる所に「歪(ひずみ)」が生じてくるのです。それでも「まだ大丈夫」「もうちょっと」「これくらい…」と言い訳を続けるのが私です。だから時間がかかるのです。

時には負け癖がついていることもあるでしょう。もう何年間も負け続けているので「今さら…」と自分で決め付けているのです。でも遅すぎることはありません!聖書には「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません(ヤコ1:22)」とあります。どんな小さなことでも、示されたらすぐ実行するのです。最初はすごくエネルギーが要るかもしれませんが、その繰り返しが、新しい習慣を生み、新しい習慣が「聖い品性」を形作るのです。

人からのサポートも不可欠です何度も言うように私達は弱いのです。特に人が一人でいるのは良くありません。信頼できる、できれば同性のクリスチャン・パートナーを見つけ、折に触れ一緒に祈ることは大切です。往々にして、私達のプライドや、隠された罪責感が、私達の「負け癖」を深刻化させているのです。神様と、人とに心を大きく開くとき、そこに聖霊の風が吹き込み、心を癒すのです。

あきらめてはいけません。むしろ、最初から時間がかかるものだと思いましょう。10年かけて身につけた癖なら、最低でもその半分5年はかかると思いましょう。もしかしたら、その完成は、御国においてかもしれません。◆テレビの「あるある」や「ダイエット広告」のように、耳あたりの良い「手っ取り早い方法」に騙されてはいけません。心の体質改善にも、地道な努力と忍耐が必要なのです。

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、
キリスト・イエスの日が来るまでに
それを完成させてくださることを
私は堅く信じているのです。(ピリピ1章6節)

その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、
何一つ欠けたところのない、
成長を遂げた、完全な者となります。
(ヤコブ1章4節)

火曜日, 2月 06, 2007

誘惑によって造りかえられる②

【ショートメッセージ】
第27日目「誘惑によって造り変えられる②」
前回も「誘惑」について題し学びました。その中で私達は「欲」そのものは罪ではないが、それに「囚われ」、それを神様よりも大事な「偶像」にしてしまうことが問題で、それを「不正な手段」により満たすことが「罪」であると学びました。今日はその学びの後編です。一体どうしたら誘惑に勝利できるのでしょうか…。

ローマ人への手紙7章で、パウロが「律法的な生き方」をしていたとき、すなわち自分の力で、神の基準に到達しようとしていたとき、彼は自分が「したいと思うことすら出来ない、本当にみじめな人間であること」を発見しました。そのことは私たちも経験済みでしょう。人間的な努力や「すがるな、さわるな」といった禁欲主義は、結局のところ、一時的な自己満足はあっても、生まれ持った「欲」に対しては何の力もないのです。

しかしパウロは、続くローマ8章で一転しています。彼は「これら全ての中にあっても、私達は圧倒的な勝利者です」と宣言しているのです。一体何があったのでしょうか?一つ言えることは、「彼が肉的なことを考えるのを止め、御霊に属することをもっぱら考えるようになった」ということです。言い方を変えれば、パウロは肉の欲に対しては、闘う前に、考えること自体を止めてしまったと言うことです。

多くの誤解があります。「神様この誘惑に勝利させてください」と熱心に祈っても、それに勝利することはできません。なぜならその人は、あまりにも「その誘惑に」集中しているからです。目の前にニンジンをつるしておけば、それが欲しくなるでしょう。食べてしまうのは時間の問題です。ダイエットに失敗する人、禁酒禁煙に失敗する人も似ています。止めたいと言いながら、頭の中でそのことばかりを考えているので、それを止めることは出来ないのです。

まず、そのことについて考えるのを止めなさい一人でいる時はなお更です。誘惑の原因となるものからは、物理的にも遠ざかりましょう。売り場にも近づかないことです。規則正しい生活をし、仕事に打ち込み、そのことばかりを考えない環境をつくることも大切です。怠惰は、敗北への道です。

しかしここに来て私達はまた振り出しに戻ります。「考えないようにする」というのは、結局「すがるな、さわるな」という律法主義の延長なのではないかと…。それだけでは、やはり根本的な解決はないのです。「考えるな」と言われても考えてしまい、「止めろ」と言われても止められないのです。そんな自分にガッカリし愛想が尽きるころ、イエス様の愛がふとせまってきます。「イエス様はそんな私のために、十字架に架かってくださった…!そして今も父なる神の右におられ、こんな私のためにとりなしていて下さる!」と。

このことを知れば知るほど。その愛の大きさに圧倒され、「すがるな、さわるな」「肉に属することを考えるな」と禁じられなくても、イエス様のことで頭がいっぱいになって、悲しまれることをしたくなくなるのです。◆これが、パウロが経験した、律法主義に優る「自発的な愛」です。誘惑に打ち勝つ、テクニックなんてもともとありません。本当の愛を知るとき、人は自ら変わろうとするのです。つづく・・・。

死んでくださった方、
いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちは、私たちを愛してくださった方によって
圧倒的な勝利者となるのです。
ローマ8章34、37節