木曜日, 11月 30, 2006

神のかたちの回復

【ショートメッセージ】 第22日目「神のかたちの回復」
今日から「聖め」についての学びにはいります。それを一言でいえば、罪によって破壊され、歪んでしまった「神のかたち」を回復していくことです。でも、破壊されたものを、どうやって回復させるのでしょう?そもそも神のかたちって何でしょう?そんなことを7回に分けて学んでいきたいと思います。まず始めに…

神のかたちを回復するとは、蛇が言うところの「神のようになれる」という意味ではありません。この世の宗教は、厳しい修行に耐え、功徳を積めば、神のようになれるとか、神秘的な体験が出来るとか、私達の「プライド」と「好奇心」を刺激してきます。しかし、それらは全て、古典的サタンの常套句です!騙されてはいけません。私たちは、力ではなく、愛と謙遜において、似た者とされるのです。

その目指すところは「キリストに似たものとされること」です。なぜなら、この方こそ「見えない神のかたち(コロサイ1:15)」であり「神の本質の完全な現われ(ヘブル1:3)」だからです。イエス様は神の御子でありながら、救いのために、この世に下って来られ、「十字架の死」にまでも従われたのです(ピリピ2:6-8)。この十字架の愛と謙遜こそ、私達が地上の生涯で、全身全霊を傾け、目指すところなのです。

しかし、それは肉的な努力によって、達成されるものではありません。ましてや、修行や、どんな功徳を積むことによってでも無理です。聖書には「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです(第2コリント3:18)」と書いてあるからです。どんなに小さな「聖霊(良心)のささやき」さえも聞き漏らさない、そしてその声に従って行く、その時、私たちは少しずつ「キリストに似た者」とされていくのです。

その上で、神様は、私たちがその御業に協力することを望まれています。神様は私達の内に働いて「神様に従いたいという志し」を与えてくださいます。そしたら、自分の意志を働かせて、古い自分を脱ぎ捨て、心の一新によって自分を変えていかなければいけないのです。この「協力」があって初めて、御霊は自由に働き、私達は「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く」のです。

どうでしょうか?胸のワクワクするような話ではないでしょうか?私達の歩みは、「救われて、お終い」ではなく、そこから始め、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく歩みなのです!◆この「変えられる」という言葉はギリシャ語で「毛虫が蝶に変わるときに使われる言葉」です。蝶になるためには殻を破らなければなりません。私たちも、キリストのようになるためには、破らなければならない殻があるのです。もしそれを、自分で破れないなら、主ご自身がそれを破られます。つまり、この「聖め」の歩みは、痛みをともなう歩みでもあるのです。次回以降そのことを学んでいきましょう。

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、
鏡のように主の栄光を反映させながら、
栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
第2コリント3章18節

木曜日, 11月 16, 2006

成熟した交わりを目指して

【ショートメッセージ】
第21日目「成熟した交わりを目指して」

今日は「交わり」についての最後の学びです。イエス様は「幼子のように」と勧められましたが、決して「子供っぽくあれ」とは言われませんでした。聖書には何度も「大人になりなさい」「成長しなさい」と勧められています。では一体、捨てるべき子供っぽさとは何であり、成熟とは何を意味するのでしょうか?

まず「子供っぽい理想主義」を捨てなさい!ある有名な神学者はこう言いました。「目の前の兄弟姉妹よりも、自分の理想を愛す者は、クリスチャン共同体の破壊者となります」と。その例がデオテレペスでしょう。彼はある意味「理想」に燃え、自分の力で教会を刷新してやろうと思っていたかもしれません。そして指導者ばかりか兄弟姉妹をも批判し、交わりを破壊してしまったのです。自分勝手な理想を他人に押し付けるような「子供っぽさ」は、捨てられなければなりません。

成熟するとは第一に安定するということです。聖書には「人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく」とあります。つまりデオテレペスのような人が現れたり、異端の教えが教会に入ってきても、簡単になびいたり、慌てたりしないことです。問題のあるときにこそ「集ること」をやめず、しっかり「聖書の教え」に留まりたいものです。

そして第二に、感情的に衝突するのではなく、話し合いで解決できることです。聖書には「愛をもって真理を語り」とあります。友を失いたくないと、言うべきことを言わないでいたら、その友は永遠に失われてしまうかもしれません。愛と勇気を持って真理を語りましょう。まずは一対一で語り合い、それでもだめなら、信頼できる人といっしょに相談に乗りましょう。それでも悔い改めないときには、教会の「秩序」と「聖さ」を守るために、大人としての「決断」が求められます。

第三に、自分ではなく、隣人を喜ばせることです。子供のうちは「してもらうこと」によって満足を得るものです。しかし大人になると「与える喜び」を知るようになります。交わりも同じです。初めは交わりの中で「分かってもらうこと」を第一に求めるでしょう。しかし成長に伴い、今度は人の話しを聞き、兄弟姉妹を喜ばせ、新しい人を「もてなすこと」に喜びを感じるようになってくるのです。

どうでしょうか?私たちは、考え方において、信仰において、そして「交わり」において大人になっているでしょうか?◆イエス様は、ご自分を喜ばせることはなさりませんでした。ただ神の栄光のために、無条件で私たちを受け入れてくださったのです。◆私たちは人間ですから、全く自分が楽しまないことは不可能でしょう。しかし、それを二の次にしてでも、互いに受け入れあい、「もてなす人」になることは大切です。

キリストでさえ、

ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。
こういうわけですから、

キリストが、神の栄光のために、
私たちを受け入れてくださったように、
あなたがたも互いに受け入れなさい。
ローマ15章3,7節(抜粋)

壊れた交わりを回復する

【ショートメッセージ】
第20日目「壊れた交わりを回復する」

前回、私たちは「交わりが壊れるとき」について学びました。それは想像するだけでも、心が痛む、悲しい交わりの姿でした。しかし今回は、一度壊れてしまった交わりが「回復するため」に必要なことは何かを、ともに学びたいと思います。

まず私たちは「平和とは何か」を知らなければなりません。聖書に「平和をつくる者は幸いである」とあるように、平和とは本来一人一人が努力して「築いていくもの」です。決して自然に「平和」が生まれるのでも、何も問題がない状態が「平和」なのでもありません。たとえ問題が起こり、交わりが壊れてしまっても、私たちはその中から「キリストにある真の平和」をつくることができるのです。

そしてその平和は、私達の心から生まれるのです。平和は待っていても、あちらから歩いては来ません。ましてや自分で復讐しようとしたり、相手を自分の思い通りに変えようとするなら、ますます遠ざかって行ってしまうのです。まずは自分が変わる事です。たとえ相手が悪くても、一方的に恨まれているときにでも、「申し訳ありませんでした」と、こちら側から和解を申し出ることが聖書的な方法なのです。その際、相手がそれを受け入れなくても、逆ギレしてはいけません。

しかし「裁かない」ということは、目をつむることではありません。兄弟姉妹の罪や争いを見ても、気付かない振りをするのは、愛ではなく「無関心」です。パウロは教会に対し「あなたがたの中には、争いを仲裁することのできるような賢い者が一人もいないのですか」と嘆いています。そして積極的に「和解の務めを担い」「互いの重荷を負い合い」「他人ことも顧みる」よう、勧めているのです。

でもその際は、言い方が大切です。どんなに正しいことを言っても、「言い方」が適切でなければ、相手の怒りに油を注ぐだけです。箴言には「柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす(15:1)」とあります。決して、ミイラ取りがミイラになり、一緒に憤慨したり、問題を更に複雑にしてしまうようなことがありませんように。具体的な方法については、次回お話します。

どうでしょうか?今日は一度壊れてしまった交わりが回復するために、何が必要なのかを学びました。この「和解の務め」を他人任せにしてはいけません。一人びとりが「平和をつくっていく」ことが大切なのです。◆でも一番大切なのは、和解のテクニックではなく、一人びとりが「しっかりとイエス様に繋がっていくこと」です。イエス様こそ私たちの「平和」であり、全ての敵意は十字架によって葬り去られたのです。ただそのことゆえに、私たちは「神の家族」なのです。

キリストこそ私たちの平和であり、
二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわします。
敵意は十字架によって葬り去られました。
あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、

神の家族なのです。
エペソ2章14-19節(抜粋)