月曜日, 3月 19, 2007

与えられているものを活用する

【ショートメッセージ】
第32日目「与えられているものを活用する」

私達は「奉仕」について学んでおりますが、今日は「タラントのたとえ」から教えられたいと思います。タラントは、英語「タレント(能力のある人)」の語源ともなっています。その価値は、1タラント=6000デナリ(日当)≒6000万円とかなりの金額です。ここから、何を学ぶことが出来るのでしょうか?

まずは、誰でも能力に応じて賜物を任されている、ということです。一タラントと聞くと「少ないな」と感じる人がいるかもしれません。でも決してそんなことはありません。1タラントだって6000万円、かなりの金額です。確かに人によって、任されるタラント(賜物)の量は違います。しかし大切なのは「量の多少ではなく、すでに与えられたものを、どう用いるか」なのです。誰も0タラントの者はいませんでした。誰もがもうすでに、思う以上に、多くを任されているのです。

では、一タラント預かった者の間違いは、何だったのでしょか。それは彼が、預かったものを全く活用せず、ただ土を掘って埋めておいたことです。なぜ彼は、そんなことをしたのでしょうか?もしかしたら、自分のタラントが他の人よりも少なかったので、へそを曲げたのでしょうか?それとも主人のことを、必要以上に恐ろしいと勘違いしていたからでしょうか?その両方かもしれません。しかし致命的だったのは、彼が、「主人の心(目的)」を全く理解していなかったことです。

主人は、何のために、大切な財産を、しもべに預けたのでしょう。もし保管しておくだけだったら、金庫に入れたり、銀行に預ければよかったでしょう。でも主人は、それを敢えて、間違いを犯すかもしれない「不完全なしもべ」に任せたのです。それはしもべが、主人の心を理解し、期待に応え、その財産(タラント)を立派に増やすためだったのです。もしそうだとすれば、努力した結果、目に見える実を結べなかったとしても、主人は「その努力」を喜んでくれたに違いありません。

私達はどうでしょう?自分のためではなく、神様の心を理解し、その期待に応え、神と人とのために、自分のタラント(賜物)を活用しているでしょうか?「自分の賜物が分からない」と言われる方がいるかもしれません。もしそうならなお更、自分の賜物を活用してください。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、何もしなければ、いつまで経っても自分の賜物を知ることは出来ないのです。私達は自分自身を、神と人とのために使ってみて、改めて自分の賜物を知るのです。

リック・ウォレンは「賜物は筋肉に似ている」と言いました。筋肉は、何歳になっても、使えば増えるそうです。でも何もしないで、寝てばかいりいると、だんだんとしぼんでしまうのです。◆賜物も同じです。使っていると更に豊かに与えられるのです。でも「そんな賜物は私にはありません」と最初から決め付け、何もしなければ、本当に何もなくなってしまうのです。だからぜひ新しい奉仕にもチャレンジしてみてください。神と人とのために、自分を活用してください!!

あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それは、あなたがたが行って実を結び、
その実が残るためなのです。
(マタイ25章16節)

火曜日, 3月 13, 2007

自分の経験をもって主に仕える

【ショートメッセージ】
第31日目「自分の経験をもって主に仕える」


「神と人とに仕えて生きる」と題し学んでいますが、今日は私達の「経験」が、どのように奉仕に生かされるか、をともに学びたいと思います。全ての人の「指紋」が違っているように、私たちが人生に残してきた「あしあと」も違っています。日本では、人と違っていることは恥ずかしいことだと思われがちですが、神様は、あなたの経験を、神と人とのために役立てたいと願っておられるのです。

聖書の原則は「苦しみを通った人が、同じ苦しみの中にある人を助けられる」です。イエス様はペテロにおっしゃられました。「もしあなたが立ち直ったら(同じ弱さを持っている)兄弟たちを力づけてやりなさい」と。そしてその通りペテロは、初代教会において、愛と哀れみをもって、信仰的に若い、多くの兄弟姉妹を励ましたのです。イエス様も同じです。イエス様は地上において、あらゆる苦しみを経験されたので、あらゆる苦しみの中にいる人々を救うことが出来になるのです。

ただし誰も一人では「完璧な苦労」を経験することは出来ないのです。牧師は聖書を専門的に学び、全体的な視点から、福音を語ることが出来ます。しかしそれだけでは物足りないと感じる人がいても仕方がないのです。だからこそ信徒の「証し」が大切なのです。障害をもったお母さんの気持ちは、同じ立場のお母さんが一番よく分かるでしょう。離婚を経験された家庭の苦労は、同じ立場の方が一番よく分かるのです。そうした交わりの中で、信仰に深い理解が与えられていくのです。

ただし経験には「落とし穴」もあります。聖書には「知識は人を高ぶらせる」とありますが「経験によっても」人は高ぶってしまうのです。「私はこんな経験をしたのに、あなた方はしていないでしょう。だから分かるはずがないのです」と、無意識に裁いてしまうのです。また、似たような経験をしていると、「あなたも私と同じ気持に違いない」と勝手に決め付け、かえって相手を傷つけてしまうことだってあるのです。自分の経験を誇ったり、安易に頼ったりしてはいけないのです。

私達は、パウロの「ちりあくた」の姿勢に学びたいものです。パウロほど色々な経験をした人はいません。救われる前に受けた学問教育が、思いがけず福音宣教に役立ちました。それでも彼は、その家柄や教養を「ちりあくた」だと呼んでいます。また伝道のために世界中を旅し、あらゆる困難と迫害を経験しましたが、その苦労話でさえ「武勇伝」とはせず、自分の「弱さと十字架のみ」を誇りました。そのような謙遜さがあったからこそ、彼の「経験」は、神様に用いられたのです。

ステンドグラスを思い出してください。色々な「かたち」と「色」のガラス片があります。どれか一つが欠けても、目立ちすぎても「絵」になりません。全てが調和するとき、美しい「作品」となるのです。◆経験も似ています。目立つ経験も、目立たない経験もあるでしょう。しかし皆が一つ心となり、十字架のもとに自分の経験を持ち寄り、「主よ用いてください」と捧げるなら、そこに「イエス様のからだ」が浮かび上がってくるのです。それこそ神の作品「教会」なのです。

しかし私には、
私たちの主イエス・キリストの十字架以外に
誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、
私も世界に対して十字架につけられたのです。
(ガラテヤ6章14節)